医学部は崩壊する!? HTML (TEXT) 版

医学部は崩壊する!?
– 研修必修化がもたらす研究と教育の荒廃
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臨床研修の必修化は、最近その功罪がしきりと論じられているが、その臨床医学に与える影響の最終的な評価にはもうしばらくの時間が必要であろう。
しかし、現在においてひとつだけはっきりしていることがある。それは研修必修化が基礎医学の分野に与えるダメージが、予想外に大きかったということだ。今、臨床研修の必修化によって、基礎医学に進む人材が激減している。こうした傾向がつづけば、日本発の臨床研究の実力は低下し、いずれは、医学界全体に大きなマイナス要因として影響を及ぼすことは必至である。
そこで今回の特集では、研修必修化によって基礎医学が被るダメージ、それが医療界全体にどう影響してくるのかを論じていただいた、九州大学生体防御医学研究所分子発現制御学分野教授/中山敬一氏の寄稿をお届けしたい。

はじめに

「今、医学部が最大の危機に瀕している」と言ったら、「何を大袈裟な」と、あなたは笑うだろうか?しかし、実際に日本の医学部では将来50年、100年にわたって禍根を残すような愚行がまさに今行われているのである。それは餓えた蛸がひもじさのあまり自分の足を食べてしまうような、将来のことをまったく考えない行為である。
数年前に始まった「研修必修化」は、診療面においてある程度の効用は認められるものの、基礎医学研究を直撃し、いずれは臨床医学研究も滅ぼすであろう。研究だけではない。このままでは、医学教育も次世代には崩壊すること必至である。そして、その先に待っているものは、教育も研究も低レベルの、大学という名の医療専門学校の出現に違いない。
小泉首相は「米百俵の精神」を掲げて国民の圧倒的な支持を得た。これはご存知のように、皆が困窮しているときに、あえて百俵の米を消費せずに将来の教育の糧に使おうという高邁な精神であり、最大の尊敬に値する姿勢であると思う。しかしながら、現在行われている医学部改革は、この精神とはまったくの反対の方向へ向かっている。私よりもよほど見識にすぐれた多くの医学者が同じ危機感を有しているにもかかわらず、誰もこの流れを止められない。そして、それ以上に深刻なのは、多くの医師や医学生が現在の危機に関する認識がないことである。
私はこのような問題を専門に研究する者ではないが、あまりの惨状に本業の合い間に筆を執ることにした。本稿では、現在の医学部が抱える病巣を摘出し、病理を調べ、治療方針を示したい。

1章
生命科学へと変貌を遂げた医学

かつての医学は
その大部分を経験に依存していた

我が国において、医学はもともと実学であった。一方で生命の構成原理を探求する生命科学は虚学であり、理学部に属していた。そして一時代前までは医学と生命科学はあまりにもかけ離れており、現実的に同一レベルで語れるような状況にはなかった。実際、20年前に私が受けた医学教育も、一部を除いて実につまらないものであった。
その理由は簡単で、ロジックがなかったからである。当然のことながら人間もひとつの生命体であり、その病気という異常状態には必ず原因があり、そしてそれを治す方法も理論のうえでは考えられるはずだ。しかし、私たちが受けた教育というのは、ほとんどの病気が原因不明、治療法はステロイド(作用機序は不明)という類いのものであり、ほとんどが経験にのみ基づいていた。現実的に理系学生の最高頭脳を集めている医学部で、なんのロジックもない暗記教育がなされていることは非常に悲しむべきことではあったが、当時の科学のレベルを考えれば仕方のないことではあった。
けれども明らかに時代は一変した。因果関係を明らかにすることによって成立する理論体系、つまり科学のひとつとしての医学が始まったのである。人間の体をひとつの生命体として捉え、それを分子レベル、細胞レベル、個体レベル、集団レベルで解析しようとする統合的な医学観が芽生え始めたのが20世紀終わりの大きな進歩だったことに、今にして気がつく。とにかく、現在では医学は立派なヒューマンライフサイエンスである。それは単なる学問上の話ではなく、すでに産業として、ヒトのメカニズムを理解し、それを応用することによって健やかなトータルライフを指向する時代が始まっている。

今までにない勢いを持って
進み出した医学研究

実際に私たちのまわりには、次第に基礎研究にもとづく成果が増え始めている。
EGF(上皮成長因子)レセプターはEGFに反応してタンパク質のチロシンをリン酸化するが、その研究から産まれたのが、EGFレセプターの阻害薬であるイレッサ。イレッサは今までほとんど打つ手のなかった、手術適応がない肺がん患者に対して明らかな効果を示す新規の抗がん剤であるが、一部の患者には致死的な副作用を有することが問題となっていた。しかし近年では、患者のEGFレセプター遺伝子の塩基配列の違いが薬剤感受性に関係あることが次第に明らかとなり、投与前に患者に対する有効性と副作用をある程度推定できるようになりつつある。これらは分子生物学や細胞生物学、さらにはゲノム医学による成果の結実と言うべきであろう。
同様の分子標的抗がん剤で有名なのはグリベックで、CML(慢性骨髄性白血病)に劇的な有効性があり、またプロテアソーム阻害薬のベルケイドはミエローマに著効を示す。さらに、ハーセプチンのような抗体医薬も登場し始めている。
そのほかにも、基礎研究の応用は意外に身近なところで現れている。よく思い出してほしい。ヒト型インスリンの大量生産が、いかに多くの糖尿病患者を救ったか。エリスロポエチン注射が、慢性貧血に悩む透析患者にとってどれだけ効果があったか。今まで抗がん剤による骨髄抑制で感染症を起こして亡くなっていた患者が、G-CSFのおかげでどのくらい助かったか。
医学が因果関係を探索し、解決しようとする姿勢を持つ真の学問になったのはつい最近のことである。とは言え、その後の発展のスピードには目を見張るものがある。21世紀になってヒトゲノム計画がほぼ完了し、私たちはその難解な設計図を一応は手にした。予想以上の難解さに手こずってはいるものの、それでもゲノム情報の取得は従来の科学の方法論を完全に逆にしたと言っても過言ではない。
今後は今までにない勢いと方法論を持って医学研究は進み、その果実は近い将来に臨床現場へ還元されることを誰もが夢見ていた。これからの生命科学、そしてその一分野であるはずの医学には、燦々たる未来が拓けてくるはずであったのだ。

2章
基礎医学を直撃した研修必修化

医学研究の将来に
立ちはだかった研修必修化

明るい未来が約束されたかに見えた医学の世界。しかし誰もが予想しなかった方向から災いはやってきた。研修医による医療事故の頻発やその背景にある研修医の過酷な労働環境に世論の批判が集中し、また大学の医局制度によるピラミッド型の支配構造を改革せねばならないという声が上がり始め臨床研修が必修化されたのだ。もちろん、そのような古い体質を改善する試み自体は悪いことではない。
研修の必修化によって、医学部を卒業して医師免許を取ってからも、さらに2年間(または3年間)の研修を受けなければ保険医登録ができない、つまり実質的に医師としての活動ができないという制度が始まった。これは言葉を変えれば、医学教育の実質的な8年化と捉えることができると思う。

現在のための医学と
将来のための医学

さて、ここで従来の医学研究の在り方について振り返ってみたい。医学は2つの側面を有する特異な学問である。つまり単なる興味のための学問ではなく、その学問から得られた最新の情報と技術を患者に還元していくことが求められ、研究と診療が車の両輪のように同時に進行しなければならない。別の見方をすれば、医学は現在のための医学と将来のための医学に分けて考えることもできるのだ。
現在の医学の基盤を支えているものは過去数十年にわたる基礎研究から得られた結果であるし、現在の研究は10年後、20年後の医学を支えるであろう。持続的な医学の発展を願うためには、常にそのエネルギーの一部を将来の投資にまわさなくてはならない。そうしなければ存続も発展もないことは、医学部に限らず、企業や国などどんな組織にも共通した自明の理であろう。特に研究開発という分野は既成の学問を超える創造の世界であるから、もっとも優秀な人材を配するべきであることは言うまでもない。

基礎医学講座を支えてきた
臨床医の大学院生

しかし実を言えば、以前から医学部は将来に対する投資にはあまり熱心ではなかった。6年にわたる医学部教育を終えて、そのまま研究をめざす者はほんの一握りというか、稀と表現したほうが正しい。1クラス100名の卒業生の中で、卒後すぐに研究をめざす者は多くて1?2名で、0名という医学部も少なくないのではないか。では、大学の講座の約半数は基礎医学なのに、これほど少ない人材でどのように研究を賄ってきたかというと、それは臨床医学からの供給に頼っていた面が大きい(図1)。
以前はかなりの数の臨床医が大学院生として基礎医学講座で研究を行った。その結果として基礎医学講座は優秀な人材を得て研究を遂行できたし、臨床医学講座は将来の臨床研究を行うための人材を養成できた。
彼らは基礎医学分野で研究のイロハを学び、世界をめざす姿勢を見て臨床へ帰り、臨床研究の担い手となった。また臨床からやって来た優秀な医者の中には、日常のルーチンワークに追われる診療業務よりも学問として探究心をそそられる医学研究に転向する者も少なからずいて、卒後すぐに基礎研究をめざすストレート組と臨床からの転向組が、以前は医学部の基礎研究と教育を支えていたのである。

研修医の大学離れの
しわ寄せが、基礎医学講座に

そうしたバランスを崩したのが臨床研修の必修化なのだ。研修必修化は当初は基礎医学講座に関係のない、単なる臨床研修制度の変更程度に受け止められ、基礎医学講座では誰もそれを真剣に危惧する者はいなかった。しかし蓋を開けてみれば、多くの研修医は症例の豊富な大学外の市中病院での研修を希望し、大学からは若手が姿を消して、臨床講座ですら深刻な労働力不足に陥り、そのツケは末端である基礎講座に押し寄せ、基礎講座には大学院生は来なくなった(図1)。貧すれば窮し、窮すれば鈍す。医学部全体として研究や教育が大切なのはわかっていても、目の前の人材不足はいかんともし難い状況になったのである。
たとえば、現在までの9年間に私の研究室に入学した大学院生は30名いるが、そのうち医学部出身者は15名で、卒業後すぐに研究を始めるストレート組の学生が6名、臨床から来た大学院生は9名であった。残りの15名はその他の学部からで、その内訳は理学部6名、薬学部5名、農学部4名であった。
毎年数名の新入生のうち、おおよそ半数は医学部出身者だったのが、研修必修化が始まってから2年間はひとりも医学部から大学院生が来ない状況がつづいている。この流れは今後もつづくものと予想され、私の所属する研究所では医学部以外からの人材募集を積極的に行うことにした。このような傾向は、全国どこの大学の基礎医学講座でも似たようなものだと思われる。

3章
研究の凋落そして教育の崩壊がやってくる

将来への投資を怠れば
研究能力の低落は必定

現在のような状態がつづけばどうなるだろうか。事実上日本の理系頭脳のトップを占めている医学部から、もっとも創造性の要求される基礎研究にまったく人材が行かなくなるという可能性が出てくる。畢竟、基礎部門における人材の数と質の低下は避けられず、当然研究能力も低落するであろう。
すなわち、未来の医療の基盤となる新しい知見を生み出すことを自ら放棄する道を選んでいるのにほかならない。将来への投資を怠った組織がたどる運命がどのようなものであるかは歴史が証明しているとおりである。

基礎医学部門の凋落は
実は医学部崩壊の序章

基礎医学部門の凋落は、実は医学部崩壊の序章にすぎない。臨床部門においてもその影響はかなり早期に現れるだろう。基礎部門で優秀な医師を学ばせることができないばかりか、大学院生という名のもとに診療行為の下働きをさせてきたツケがある。早晩、臨床研究能力の低下はやってくるはずだ。実験のイロハをまったく知らない多忙な医師にどのような研究ができると言うのか。
今まで彼らが基礎研究で学んでいたものは、決して実験手法とかテクニックといったものだけではない。研究の意義、研究に対する姿勢、立案と遂行に対する種々の知恵、世界最先端への距離感、等々、科学としての医学を肌で実感することがその最大の恩恵だったのだ。そのような訓練を受けていない人間が臨床研究の担い手になるのである。あっというまに日本の臨床研究能力は低下するだろう。
大学における研究能力の低下が国民の健康維持にとって直接的な損失であることは言うまでもないが、間接的にも医療バイオ関係をすべて海外に独占されることは経済的に巨大な損失であることは明らかである。
そもそも大学病院の存在意義は、なんだったのか。患者は何を求め、そこで働く医師は何を指向していたのか。現在、それがまったく曖昧になってしまったために若い医師たちが大学を離れていくのではないか。
大学病院が市中病院と異なる点は、大学が最先端の医学を研究し、その成果をいのいちばんに患者への診療に応用するというその一点に尽きるだろう。その大学病院が研究行為を放棄してしまえば、なんら市中病院と変わるところはないばかりか、今まで長らく白い巨塔状態であった大学に勝ち目はないことは火を見るより明らかである。医師にとっても、そのような大学病院にはなんの魅力もないに違いない。

予想されるもっと深刻な事態
それは、医学教育の崩壊

そして、実は研究における打撃とはくらべ物にならないほど深刻な事態が予想される。それは医学教育の崩壊である。研究の低迷は、適切な改革をすれば5年、10年で取り戻すことが可能である。しかし教育の崩壊は50年、あるいは100年の損失になりかねない。このまま現在の状況がつづけば、基礎医学研究の世界から医学部出身者は払底する。当然、非医学部出身者が医学部の基礎講座の教官ポストを埋めることになるだろう。つまり医学教育を受けたことのない人たちによって医学教育が行われるようになる。
誤解のないように付け加えるのだが、私は医学部の教官をすべて医学部出身者にせよと言っているわけではない。分野によっては非医学系の研究者のほうが優秀な場合も多いし、それらの研究者が医学部に入ってくることを排除すべきではない。実際、私の所属する研究所も医学研究所と銘打ってあるが、基礎部門の半数は医学部出身ではない。しかし医学教育を受けたことのない教官だけが明日の医学を担う若者の教育を行うことに対しては、以下の理由によって反対である。
医学部で受ける教育というのは並大抵のものではない。まず解剖学(=正常構造)や生理学(=正常機能)を習い、その異常としての病理学(=異常構造)や臨床医学(=異常機能)を習う。つまり人間というひとつの生物に関して、構造・機能についての正常・異常をありとあらゆる角度から6年間にわたって徹底的に叩き込まれる。その結果、人間という生物に対して「個体レベルでの理解」が感覚的に芽生えてくる。これは他学部の人には絶対にない感覚で、それを独学で学ぶことはまず不可能であるし、私は医学部を出ていないのにこの感覚を身につけている人に出会ったことがない。
それは医学部6年間で得る知識の量が膨大なだけでなく、実際に解剖を行ったり、患者を診察したりしなければわかならないことばかりだからである。医学教育は6年かかり、他学部にくらべれば2年のまわり道ではあるが、この「人間個体レベルの理解」は、ライフサイエンスを行っていくうえで絶大な力を発揮する。それは当然医学教育に対しても同様である。私自身は以前医学部に行ったことを非常に後悔した時期もあったが、今ではそんなことはまったく思わない。
いくら分子や細胞や動物のエキスパートであろうと、人間個体への最終的な理解に乏しい教官が教える医学は、自ずとその説得力に限界があろう。今ですら医学生は基礎医学の授業は単なる試験のために受けていて、決して自分の医師としての素養に役立つとは考えていない風潮が強いが、人間個体と切り離された教育が進めば、ますます基礎医学への興味は失われ、結局のところ医学部は、生命の構成原理すら理解していない医療技術者の養成機関となり果てることは目に見えている。
くどいようだが、もう一度誤解のないように付け加えておくと、私は基礎医学部門の教官をすべて医学部出身者で独占せよ、などという偏狭な意見を述べているのではない。中途半端な科学しかできない医学部出身者よりは、世界的なレベルの研究をしている非医学部出身者のほうがよほど迫力のある講義ができるだろうし、学生に訴える力も強いだろう。
私が声を大にして言いたいのは、そのような世界レベルの研究を行える人材を医学部から豊富に供給できる体制を整えよ、ということである。もともとそれだけの頭脳持った人材を医学部は抱え込んでいるのである。自分の学部の基礎教育を自分の学部出身者で賄えないことほど情けないことはない。

4章
改革案:大学の役割の明確化と医師の二分化

単に昔に戻すのではなく
現方式のさらなる改良を

では、研究の凋落、教育の崩壊を招かないためにはどうすれば良いのだろうか。研修必修化を止め、医師の技能向上と医局人事からの脱却をめざしたはずの現方式を旧に復すれば良いのか。私はそうは思わない。
現方式は長期的な視点に立てば前記のごとく、著しく瑕疵のある方策ではあるが、少なくとも目先の問題に対してはある程度有効であろうから、単に昔に戻すのではなく、現方式をさらに改良すれば良いのではないだろうか。具体的な案としてはまだはなはだ荒削りだが、私の案を紹介したい(図2)。

大学病院を完全に
リサーチホスピタル化すべし

 まずこの問題は大学病院の存立基盤に端緒を発していることを考えれば、大学病院自体をいかに変えていくか、市中病院といかに差別化を図っていくか、が第一の改革となろう。過去において大学病院はブランドであった。単なる風邪の患者すら大挙して押しかけ、3時間待ちの3分診療と言われた時代があった。しかし、もはやそのような時代ではない。患者にも若手医師にも見放され始めている。
 先にも述べたように、大学病院の最大にして唯一のアドバンテージはその研究開発能力にある。それを踏まえれば、大学病院は完全なリサーチホスピタル化をしなくては社会的な使命を果たせないであろう。基礎研究の成果を踏まえたtranslational medicineを徹底的に行わなくては、もはや大学病院の価値はない。最新の治療法、最先端の治療機器、最高のスタッフがそろっている病院でなくてはならず、従来のような人事権だけで他の病院を支配下に置くようなことでは誰の支持も得られない。患者にとっても医師にとっても真のプレステージでなくては意味がないのだ。
 市中病院で行えることは市中病院に任せておけば良い。もはや大学病院には通常の外来は必要ないだろう。大学病院には、完全紹介制で実験的医療のインフォームド・コンセントが得られた患者のみ受け入れ、綿密なプロトコールのもとに、きちんとした計画と科学的評価を行う体制が何より必要である。
 大学病院に勤務する医師については、その指導層は固定せざるをえないにせよ、中堅以下は市中病院との循環を保つ制度をつくるべきだろう。そして、指導層に対してはプレステージを与える意味で報酬と肩書きを別格にする必要もある。全国の大学病院における指導層の人数などたかが知れているし、その報酬を少々上げることで医学研究と教育の改革ができるならむしろ安いものだ。

大学院のシステムを
抜本的に見直す必要

大学病院の根幹が研究を基盤とした最先端医療にあるとするならば、その指導層は当然医学研究に対する造詣が深くなければならない。そうなるためには現在の大学院のシステムを抜本的に見直す必要がある。
現在は「医学博士」のプレステージは見る見る低落し、むしろ「専門医」の肩書きを欲する医師が増えている。つまり大学院で学ぶことの魅力もメリットも感じられなくなってきているのだ。
その元凶は、1990年代後半から始まった大学院大学化にあると言っても過言ではないだろう。これ以降、医学の進歩を担うべき基幹大学がこぞって大学院大学となり、本来の必要性をはるかに超えた学生定員を抱えることになった。数の充足を図るべく、質を犠牲にして量を水増しするという愚挙に出たのだ。結果的に起こったことは、多くが大学院に入学するものの、きちんとした研究や教育が行われないために、評価もいい加減な“なんちゃんって医学博士”の大量生産である。学位はプレステージではなくなり、持っていてもなんのメリットもない称号になり下がった。そもそも、博士号を持つ人間を倍増させて社会にどういうメリットがあるのか、理解に苦しむのは私だけではあるまい。
今後は大学院の質の再建をめざすべきである。現在の大学院の実情は誰が見ても以前よりも圧倒的に悪化している。少なくとも医学系大学院に対しては、定員充足率に関して文部科学省は寛容であるべきだ。量よりも質の充実こそが現在の喫緊の課題であるからである。

博士号か、専門医か
2つの道を明確に示す

大学院で真の研究を学ぶことを目的とする者だけが入学し、厳格な審査を経て学位を授与する少数精鋭主義にあらためるべきである。このような資格を有する者が大学病院における指導層を形成するようになれば、必然的に研究志向の強い若手医師は、大学院に入って基礎研究の門を叩くことにメリットを感じるようになるだろう。
このようなサイクルが定着すれば、将来の医学の発展に貢献しようと志す人たちは、その人生の少なくとも4年間は腰を落ち着けて研究するという経験を積めるだろうし、それは基礎研究部門を活性化し、さらには臨床研究部門の成果を増し、真のtranslational medicineへの貢献となり、最終的には国民の利益となる。
すべての医師が平等でひとつの道を歩む時代はすでに去った。これからは将来の投資のために医学を志す医師と、現在の医療技術を駆使して患者の治療にあたる医師が、それぞれの志向と適性に応じてその役割を分担すべきであり、当然大学病院と市中病院もその目的と役割を明確に分離すべきであると思う。つまり大学院に入学して博士号を取ることをめざす道と、市中病院において専門医をめざす道という2つの道の存在を医学生に明確に示し、選択させることを促す方策が何より必要である。繰り返すが、全員が平等でなくてはならないという時代ではもはやないのだ。
今、もっとも大切なのは、医学部が存亡の危機に立たされていて、早急な対応が必要であることをひとりでも多くの方に認識していただくことである。すべてが手遅れにならないうちに、適切な制度の改革がなされることを切に希望したい。

教えて、先生! HTML (TEXT) 版

他人と違う生き方

僕の生き方はね、他人とは全く違うんだ。国立大の医学部を卒業後、臨床研修をせずにすぐに基礎研究の道に進んだんだ。国立大を卒業して私大の大学院に行く人はほとんどいないと思うけど、僕の場合は順天堂大学に良い先生がいたから、そこの大学院に行くことにした。

大学院を出てからは理化学研究所に入って、そのあとすぐワシントン大学に留学し、約5年間過ごした。アメリカは32歳くらいになったら独立するのが普通だけど、当時32歳だった僕は日本に帰っても独立できないし、そもそも日本に帰るつもりはなかったんだ。

ところがボスが、何を思ったか日本の製薬会社の研究所所長になっちゃったのさ。「お前も日本に来い、そこで独立させてやるから」って言うから、じゃあそうしようかなと思って……意外な形で帰国した。日本では医学部卒は普通製薬会社に行かないし、研究やりたいのに企業行くヤツもまずいないけどね。 でもボスが語ったのは、日本トップの若手研究者15人を集めて新しい研究所を作るっていう、とても夢のある話で、それに惹かれたんだよね。今となっては詐欺にあったような気もするけど(笑)。

製薬企業に勤めて、初めの1年はハッピーだった。何をやってもよかったからね。でも、次第に研究の方向性が狭められてしまった。ラボを持たせてもらえたのは計画通りだったけど、研究者15人も結局集まらなかったしね。ともかく、わずか1年で企業の方針が変わったのは誤算だった。 実はそのちょっと前から九大に来てくれないかって誘われていたんだけど、はじめは断っていた。でも最終的に九大に行くことを決意したのは、大学は研究の自由が保証されているから。とにかく他人とは全く違った経路を辿って、九大の教授になった。当時まだ34歳だった。

<プロフィール>
中山敬一(なかやま・けいいち)主幹教授
1986年、東京医科歯科大学医学部卒業。順天堂大学大学院修了後、政府系研究所、米国留学や企業経験を経て1996年九州大学・生体防御医学研究所教授。2009年より同主幹教授。2010年夏、著書『君たちに伝えたい3つのこと―仕事と人生について 科学者からのメッセージ』を出版。現在、重版や韓国からの出版オファーなどの反響を呼んでいる。

「過激すぎる」著書の出版まで

九大に来てまず行ったことは学生を集めることだった。そのために当時はまだ珍しかったウェブサイトを作って、そこに学生をアジる(焚きつける)ような文章を載せた。 きっとやる気のある学生なら食いついてくると思って、エサを撒いたんだ。案の定、このウェブサイトは多くの研究者の間で結構評判になった。だってホンネがそのまま書いてあるからね。 ところが釣れたのは学生だけではなかった。ある日科学専門誌の出版社から原稿の依頼が来たんだ。そこでウェブの内容をかなり穏やかな表現に変えて原稿を書いたんだけど、編集長から「過激すぎる」ってストップがかかって、ボツになっちゃった。 科学専門誌は研究者とか医者が読者だから、医者に喧嘩売るようなマネは困るわけだよね。仕方ないので、書いた原稿をそのまま全部ネットにあげたら、今度は『もしドラ』を出している超メジャーな出版社からオファーが来た。 まさに捨てる神あれば拾う神あり、というか人間万事塞翁が馬、というか。いやむしろ藁しべ長者的な展開かな。

著書への反応

この本では当たり前のことを書いたつもりなんだけど、キャッチコピーとして「過激すぎる」という帯付きで出版された。ネットでは「正論」という意見と、「トンデモない」という評価に二分されているみたいだね。 よくあるのは「面白かったけど、最後で引きました」っていう反応。何でかっていうと、最後の部分に、女性が科学者になるために「結婚は△、出産は×」って書いちゃったんだ。僕は基本的に、科学には男性も女性も関係ないと思ってる。 今の風潮は女性にとって追い風になっていて、それ自体は悪い事じゃないと思うんだけど、でも子どもを育てながら世界一流の科学をやるのはとてもできないと思う。マラソンやるときに、子ども背負って走る人はいないでしょ?

世の中には、真実なのに口にしてはいけないことがたくさんある。でも自分が人生を選ぶときに、1つくらい参考にできるホンネの本があってもいいんじゃないのって思うわけ。逆にそういうホンネを書かないと、この本の価値はないわけさ。綺麗事に騙されて自分の一生決めて、あとでつまんなかったなって思ったら嫌でしょ?

著書への反応

学生へのメッセージは非常に単純明快で、「面白い人生を送ろう」ってことだけさ。僕の生き方は他人とは全然違うけど、もちろん戦略があってその道を選んだわけ。 僕の中では、研究は医者をするより圧倒的に面白い。医者の仕事は毎日同じことの繰り返しで、知的興奮がないんだよね。しかも冒険ができない。新しいことがない人生はつまらないよ。でも大部分の人にとって、他人と違う道を選ぶことは怖い。

今の世の中は、理系で一番頭がいい人は医学部行っちゃうでしょ。でも医者やるにはそんなに高度な頭脳はいらないんだよ。出来る子はやっぱり数学とか物理とか、一番頭脳が必要なところに行ってほしいね。医学部に来た子の中で、1割でもいいから、自分の才能を使って面白い研究をしてほしい。 面白いというのは、人がやったことないことをして、毎日が驚きや発見に満ちていて興奮できる人生。研究者という、一番面白い、一番自由で、一番興奮するような職業になんでみんななりたがらないのか、理解しかねるね。今の若い人は目先の安定を求めてリスクをとりたがらない。でもリスクをとらなかったらリターンもないわけさ。

頭を使って、自分なりの戦略で、自分の進路を決めてほしい。詳しくは、著書を読んでください(笑)。人生1回しかないからね。研究者は面白いしエキサイティングだけど、ある意味世界との競争だから疲れるんだよね。休んでいられないし、こんな人生は1回でいい(笑)。けど人生は1回しかないから、一番面白いと思うことをやっているのさ。

教授からのメッセージ

「よくある質問」編

No. 1 基礎配置について

1. 九大医学部の使命

私のような他大学から来た者の目から見ると、九大医学部の教育プログラムは大変独創的で素晴らしいプログラムであると常々感じております。その教育担当者による情熱溢れた企画力には陰ながら感服しておりました。

但し、これはあくまでも方法論の話であって、医学教育の本質的なこととなると九大ほど愚かな教育をしているところも珍しいのではないかと思います。と申しますのは、現在の九大医学部の教育は「医療者養成学校」のそれに堕しているからです。

医学は基礎理論探求と応用学問(=臨床)という2つの側面を持っており、当然前者は未来の医学の基礎となるべく、10~20年後の医学を模索して行われるもので、逆に後者は現在苦しんでいる人々に対して今までの知識の蓄積を基に医療サービスを施すのがその役目です。つまり基礎研究は「未来のための医学」、臨床は「現在のための医学」です。では旧帝国大学であり、大学院重点化を受けている九大医学部としては、基礎研究と応用開発のどちらがより社会からの要請が大きいのでしょうか?

それは基礎研究だと私は考えます。何故なら応用開発(=臨床)は臨床医養成に重点を置いたF私大やK私大でもできるからです。私はA国立大学を卒業して、その後B私立大学で臨床研修を受けました。そのとき実感したのは、B私大の方が、A国大よりもはるかにレベルの高い医療サービスを施していたということです。これは私にとって非常な驚きでした。確かに頭脳のレベルはA国大の方が勝っていることは事実でしたが、実際の臨床というものはそれだけじゃないんだということがわかりました。もちろん九大の頭のいい医者でも十分にいい臨床をできると思いますが、それは松井選手にサッカーをやらせたり、中田選手に野球をさせたりするようなものです。はたから見ていて非常にもったいないでしょう?つまり私の言いたいことは、九大卒業生は、それなりの頭脳を持った人でなくてはできない、独創的で未来を拓く原動力となるような基礎研究の道を歩むべきだと信じています。理想的には上位20~30%の学生は基礎医学研究を目指すべきです。

しかしながら現状はいかがでしょうか?全卒業生の中で基礎研究者を目指す人はほぼゼロに近いというお寒い状態です。

2. 基礎配置の意義

それでは基礎配置の持つ意義とは何でしょうか?それは基礎医学研究の「真の」面白さを学生に教えてあげることです。「真の」と言ったのは、研究の面白さは未知の真理の解明という、人間だけに与えられた最も高尚な特権 – 知的好奇心 – を刺激することにあるからです。授業は過去の知識の集大成を系統的に教えるだけですから、どうしても「真の」面白さは伝わりません。それは臨床も同じでベッドサイドでの体験がなければ、講義を聞いても眠いだけでしょう。基礎配置は基礎医学研究室に与えられた貴重な「体験」のための時間であり、本格的な医学研究者を輩出するためには是非とも必要なプログラムです。

3. 基礎医学研究者を目指す学生が少ない原因

可能性のある原因は2つ考えられます。1つは九大医学部学生自体の資質によるもの。もう1つは九大医学部の教育プログラムによるもの。答えは明らかに後者です。何故ならば当研究室における過去2年の基礎配置経験がそれを物語っています。

当研究室は「医学部学生は頭が良く、本当に真剣にサイエンスの面白さを教えてあげればきっと興味を持つだろう」という信念のもとに基礎配置に取り組んできました。初年度は不幸なことにその姿勢が学生に知られていなかったために、全員がやる気満々というわけではありませんでしたが、そのうち3人は非常に興味を示し、2人は卒業後すぐに当研究室に大学院生として入学しました。次年度は前年度の失敗を教訓にして、初めから学生に我々の姿勢を明確に打ち出しました。曰く、1ヶ月ではサイエンスの面白さも何もわからないので、最低2ヶ月(できればそれ以上)続けて来られる学生だけを対象に、本格的な研究体験をさせる、というメッセージです。それでも4人の枠の中に6人近くの応募があったように聞いています(学生から聞いた話なので正確ではないかも知れません)。

この4名はさすがに覚悟してきただけあって、非常によくやってくれました。端から見ても研究を楽しんでいる様子がありありとわかりました。しかし結論から言えば、最終的には誰も卒業後すぐに来るという人は残念ながら皆無でした。何故でしょうか?初年度と次年度と何が違っていたのでしょうか?4人の学生ともほとんど同じだったコメントがそれを物語っています。「もう1、2年早く基礎配置があったら、きっと自分は基礎研究の道を志していたと思う」。つまり初年度は5年の6月に基礎配置があったのに対し、次年度は6年の4~5月になった、このたった1年の違いだけです。

医学部6年生となるとすでに時間的・精神的に余裕のない状態になっています。そのような切羽詰まった状態の学生に、将来の進路を180度転換するような選択をさせるのは非常に酷なことですし、もう固まりつつある心を溶融させるのはそう簡単なことではありません。まさに「鉄は熱いうちに打て」です。冷めて固まった鉄を曲げることは、もう難しいのです。これは、理屈ではないのです。

では基礎配置の時期を単に前にずらせばいいかというと答えは否です。一昨年まではそういうプログラムで基礎配置を行っていたにもかかわらず、ほとんど基礎研究者を目指すような学生が輩出しなかったではないか、という反論があるでしょう。これは残念ながら基礎研究室側にも情熱の欠如という大きな問題があったからだと思います。しかしながらこの問題に関しては、取り組み方を変えるように努力することは可能です。まず、何故基礎配置に対して真剣に取り組まないかという原因に対して、それを究明する必要があります。

4. 現在の基礎臨床研究室配属について

現在の基礎「臨床」研究室配属は上に述べたような基礎配置の本質から大きくはずれています。まず第一に臨床研究というのは学生が学ぶべき研究とは異なるということです。臨床研究は応用研究であり、基礎理論があってそれを目の前の患者にどうフィードバックしていくかという研究です。それはそれで必要なものですが、それは医者になって問題意識が芽生えてから学べばいいことです。それよりも頭の柔らかい学生のうちに本格的なサイエンスを見せておく方が、将来臨床に行って研究をするときもきっと役に立つでしょう。「まず本質を見せてから、応用を学ぶ」というのが正しい姿勢であると思います。

現行の基礎臨床研究室配属は単に臨床教室の「勧誘」の場になっている、との指摘があります。それは受け入れ学生数の数を見てもわかります。臨床での研究で20人もとるところがありますが、一体どんな研究をやらせるのでしょうか?実際は単に研修医の前倒しに過ぎないのではないかという声さえあります。とにかく本来の基礎配置の目的であった「学生に本当の科学研究の面白さを教える」という趣旨から完全に逸脱していることは確かです。

5. 問題点のまとめ

  • 九大医学部の卒業生はほとんどが医療者となっており、医学者になっていない。
  • 九大医学部に求められているのは、医療者ではなく、医学者の養成である。
  • 基礎配置は本格的な医学研究者の輩出のために是非とも必要である。
  • 学生に問題があるのではなく、プログラムの時期に問題がある。
  • 基礎研究室の取り組み方にも問題がある。
  • 現行の基礎臨床研究室配属は、本来の基礎配置の意義とは全く異なるものとして運営されている。

6. 改革案

  • 基礎配置の時期を現行の6年生から4~5年次に行うようにする。できれば6、7月で興味がある学生に対しては8月も対象にする。
  • 臨床への配属は止める。
  • 基礎研究室が真剣に取り組むよう、ガイドラインの設定等の積極的な施策が必要である。
  • 興味を持った学生がその後も研究との接点が持てるように工夫すべきである。

7. 当研究室の現在の取り組み

残念ながら現行の基礎臨床研究室配属はその本来の目的に対して有効に機能しないことが判明したので、当研究室では医学部の改革を待つことなく、独自で以下の3点について試みを始めています。

  1. 「分子生物学勉強会」というゼミの開催。毎年5~7月の毎木曜日に読書会をしています。単なる読書会ではなく、物事を考えさせるような工夫をしています。
  2. 「サマースチューデント」制度。学年を問わず、夏休みを利用して希望する学生を受け入れて研究させています。基本的には分子生物学勉強会の後にそのまま参加する学生が多いです。但し、ほとんど2週間くらいしか学生の都合がつかないところが欠点です。
  3. 「分子生物学研会」制度。サマースチューデントに来た学生達が作った会で、夏休み後も研究室に出入りして実験を続けています。

No. 2 よくある質問1 – 私には研究者としての資質があるのでしょうか?

1. 研究者の資質は論理性である

皆さん、研究者というもののイメージとして、「誰にも考えつかないような突飛なアイデアをどんどん思いつく」エジソンやアインシュタインみたいな人を想像していませんか???基礎研究はしてみたいけど、自分にはそんな能力が果たしてあるのだろうか、と不安に思っている人もいるのではないですか???実はこの類の質問は、私のところへ切羽詰まった表情をして来る学生さんから聞く質問の中で最も多いものなのです。

生命科学者に求められる第一の資質は、意外に思われるかも知れませんが、「論理性」なのです。つまり、突飛なアイデアではなくて、A→B、B→CならばA→Cというような、確実で緻密な思考能力が要求されます。そして、君達九大医学部生のほとんどは、求められるレベルを既にクリアしています。だから、君達は生命科学者として、きっとある程度までは問題なく進めるでしょう。しかし、世界レベルの科学者になれるかどうかは、プラスαが求められることはいうまでもありません。それは「努力」であったり、「才能」であったり、「運」であったりします。

2. 君達は既に開幕一軍入りだ

野球選手をイメージして下さい。全員がイチローのようなスーパースターになれるわけではありません。それはどんな職業でも同じです。九大医学部に入学できるだけの頭脳を持った君達は、既に開幕一軍入り程度の実力を兼ね備えています。しかしレギュラーになれるかどうか、エースピッチャーになれるかどうか、4番バッターになれるかどうかは、その人次第です。私が言いたいのは、君達ならばきっとある程度以上のレベルまでは到達できる、少なくとも食うには困らない生活はできる、(だろう)ということです。

3. スーパースターを目指すためには一流のラボへ行け

全ての職業はそうですが、誰でも努力すればスーパースターになれるわけではありません。残念ながら、医学研究者にとっての「素質」を明確に規定することはできません。しかし、その必要条件は明らかです。それは大学院生時代を過ごすラボは、一流のラボに行け、ということです。

大学院生のときの教育がその人の科学者としての基盤を形成することは明らかです。また一流のラボに行けばそれだけ一流の研究をできる可能性があり、科学者としての業績を積むことができ、さらに次のステップ(ポストドクトラルフェロー)で一流の研究室へ進むことができます。大学院生のときの業績はラボの実力に依存する部分が多いので、いかに君達が優秀でも、もし二流・三流のラボに行ったら業績は出ず、いいところへポスドクも行けず、結局いいポストにも就けない、というmalignant cycleに入る危険性が大です。

4. 老舗は止めて、キャピタル・ゲインを狙おう

上で、一流のラボに行け、と言いましたが、一流の中にも「これからもっともっと伸びていきそうな一流」「既にプラトーに達している一流」があります。世間で言う超有名研究室(いわゆる老舗)は後者がほとんどです。既にプラトーに達している研究室の多くは、ものすごい数の学生がいて、教授はほとんど研究室にはおらず、一握りの学生以外は、ほとんど討ち死に状態にある研究室もあります。

株を買うと、業績に応じて配当がもらえます。これをインカム・ゲインといいます。しかし株は、それ自体の価格が変動しますから、会社の規模が拡張する時期に株を買えば、株自体の価格が大きく値上がりすることになります。つまり安いときに買って、高いときに売る、この差額による儲けをキャピタル・ゲインと言います。「既にプラトーに達している一流」は既に十分株価が高いですから、インカム・ゲインしか狙えませんが、「これからもっともっと伸びていきそうな一流」では大きなキャピタル・ゲインが期待できます。サイエンスの世界も同じで、皆さんも研究室を選ぶときには「これからもっともっと伸びていきそうな一流」の研究室を目指すべきだと思います。

具体的に言うと、教授がまだ若くて、ここ2~3年で業績が急速に伸びているところがお勧めです。後は土日や深夜にどれだけ研究者が実験しているか、もいい指標となります。土日・深夜に電気が消えているラボにいいラボはありません。研究室のミーティングや抄読会に参加させてもらうのもいいアイデアです。どのくらい真剣に科学に取り組んでいるかがわかります。では実際にどのような研究室があるのか、というリストをここに掲載するのは、ちょっと問題があるので、個人的に私の部屋まで相談に来て下さい。事前に電話をもらえれば、必ず時間を作ります。

No. 3 よくある質問2 – 臨床を2~3年してから基礎研究したいのですが?

1. 気持ちはよくわかりますが、それは最低の選択です

折角医学部に入って、6年も勉強してやっと医師免許を手に入れたのに、全く臨床経験をせずに基礎研究に打ち込んでいいものかどうか。自分にとってまだ臨床がいいのか研究がいいのか迷いがある。とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究の世界に行くかどうか考えてみたい。と、相談に来る人が毎年必ず数人います。気持ちはよくわかります。実は私もそのようなことを言っていた一人ですから(下記参照)。しかし、結果から申せば、それは最も愚かな選択なのです。

2. 多田先生の一言で

私の経験から話しましょう。私は医学部4年生(M2)のときに、当時東京医科歯科大学の教授であられた笹月 健彦先生(現九州大学生体防御医学研究所・教授)の講義に感銘を受け、夏休みや春休みを利用して研究室に出入りし、細胞免疫学の実験をさせて頂きました。この体験を通じて、免疫学者の道を歩もうと心に決めたわけですが、実は私も「2~4年間臨床をしてから、基礎に行こう」と考えていました。そんなとき笹月先生が九大に移られることが決まり、大変ショックを受け、東京の別の大学の免疫学研究室を探しました(実はその頃、九州は地の果てだと思っていた私には、九大に行くというオプションは夢にも思なかったのですが、今は東京の大学から学生が来ないと言って怒っています)。当時、東大には多田 富雄先生という免疫学の大御所がいて、一度多田先生に面接して頂いたことがあります。その時に、「2~4年臨床をしてから基礎に行きたい」とのたまわったところ、「こんなにサイエンスの世界が革新的に進歩しているのに、2年も無駄にしてどうするんだ」と叱られました。今から15年前の話です。もちろん現在の方が15年前と比較にならないくらい、凄いスピードでサイエンスは進歩しているのです。

3. 5年の遅れは取り戻せない

科学者に出身学部の壁はありません。いったん科学者を目指した瞬間から、君達のライバルは医学部出身者だけではなく、理・薬・農・工学部出身者との競争になります。しかし彼らの卒業は22歳で、大学4年生で研究室に配属されるところも多いので、実質21歳で研究の道に入ることになります。それに対して医学部教育は6年間あり、どんなに早くとも卒業は24歳です。君達が卒後すぐに研究を始めるとしても、すでに3年のハンデがあるのです。そのハンデは決して挽回不可能なものではありませんが、かなり大きいことは事実です。なのに「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか」なんて迷っているのは、全く馬鹿げています。5年も遅れてしまったら、もう取り返しがつきません。だって君が大学院に入学するときに、相手はもう大学院を卒業してポスドクをしているのですよ。

私の大学院のときにS君という理学部出身の同級生がいました。当時、私とS君の上司の先生は中内 啓光先生(現筑波大医学部免疫学講座・教授)でしたが、中内先生曰く、「中山君、既に3年のハンデがあるからすぐに追い付けとは言わないが、5年後にS君に追いついていなければ科学者としてはダメだよ」と言われました。ちなみにS君は大学院生のときに独力でNature誌に論文を出したスタースチューデントでした。つまりそのS君が8年かけていくところを5年で行けというわけです。それだけでも厳しいのに、さらに2~3年も遊んでいたら、と思うと今でもぞっとします。多田先生に叱られたお陰で、最低の選択をせずにすみました。

4. なぜ迷うのか - 結論の先送りは止めよ

では、なぜ「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究に行きたい」と言う人が多いのでしょうか?これにはいくつかの理由が考えられます。例えば、折角医師免許を取ったのだから医者をしてみたい、将来の収入が不安なので手に職を付けておきたい、親の希望、等々。しかし真剣に人生を考えている人ならば、これらの理由が、上述した「5年の遅れ」を正当化するだけの説得力を持っていないことに気付く筈です。

経験として医者をしてみたいという気持ちはわかりますが、それは君達がたまたま医師免許を持っているだけのことであって、その他にも経験としてやってみたいことはいくらでもあるはずです。例えば絵描きになってみたい、モデルになってみたい、八百屋になってみたい・・・きりがありません。自動車免許を持っているからといって、タクシードライバーになってみたいと思いますか(註:タクシードライバーには2種免許が必要)。将来の収入が不安というのも、チャレンジする前から保険を掛けておこうとするのはよくありません。保険を掛けて本業を疎かにするのは本末転倒です。親の希望・・・誰のための人生ですか?君の人生の岐路の中でも最も大きい決断を迫られているときくらい、自分の意志で決めなさい。

「2~3年臨床をしてから基礎に行きたい」という学生さんから、私が感じる最も大きい要素は、「今すぐ結論を出すのではなく、2~3年よく考えてから」といった結論を先送りしたいという甘えです。既に6年間も教育に時間をかけてきて、他の学部出身者はもうプロとしての第一歩を歩みだしているときに、「もう少し考えてから」というその悠長さは、滑稽ですらあります。では、なぜすぐに結論が出せないのでしょうか。それは医学教育の6年間の間に真剣に自分の将来について考えてこなかったからです。ではどうしたらいいのでしょうか。なるべく低学年のうちから、「自分は研究と臨床とどちらに進むべきか」という意識を持つこと、持たせることです。常々私が申しているように、医学部を卒業したら道は大きく二つに分かれているのです。「医学者」の道と「医療者」の道と。そのことに思いを寄せずに6年間過ごしてきてしまったために、いきなり選択を迫られて、「また後で」とモラトリアムになってしまっているのです。まあ九大医学部のほとんどの人が、道が二つに分かれていることさえ認識できずに卒業していく現状から見れば、まだ二つの道が見えている人は賢明な部類なのでしょう。しかしその他大勢の人も5~10年経ってから、実は卒業時に道が二本あったことに気が付いているのです。そして意外と多くの人が、「研究の道に進めば良かった」と後悔しているのです。実際、その思いが強くて30歳近くになって研究を志す人も中にはいますが、残念ながら手遅れと言わざるを得ません。

5. 「とりあえず2~3年研修医をしてから」の愚かな理由

研修医というのは、朝一番に行って、一通り患者さんの回診をしたあと、種々の伝票を書き、検査結果やカルテの整理、検査や手術への立ち会い、採血や点滴、アルバイト、カンファレンス発表の準備、等々夜遅くまで、時に食事をする暇もないほど忙しく働かなければなりません。全く初めての体験ばかりで、物事をじっくり考える暇もなく働き、「自分は一人の医師として頑張って働いている」という意識に充実感を覚えるかも知れません。でも、これは頭を空っぽにして働いている人が陥りやすい一種の自己陶酔であって、現実的には研修医は雑用係でしかありません。臨床医としての真の喜びは、知識と理論に裏付けされた診断及び治療方針に、自分の経験から来る匙加減を加えて、患者の自然治癒を助けることにあります。別に伝票を書いたり、採血をすること自体が喜びではないことは自明です。しかしそのような一人前の医師になるためには、研修医の後もずっと臨床医として経験を積まねばなりません。

雑用係をするために、2~3年の貴重な時間を潰すことは、全く愚かなことです。研修医とはテニスプレイヤーに例えれば、球拾いのようなものです。誰でも球拾いから始めることは仕方のないことですが、それは将来的にテニスの楽しさを満喫するためのものであって、球拾い自体が楽しいわけではありません。君達が野球選手を目指しているのに、「2~3年テニスもしてみたい」と言ってテニスコートで球拾いをしているようなものです。その間にも君達のライバルは野球の練習をしてどんどん野球がうまくなっていきます。そんな状況でも君達は球拾いをしたいと思いますか?

私達から見れば、2~3年研修医をすることは、2~3年海外旅行へ行って遊んでいるのと全く同じです。しかしやっかいなことは、海外旅行をして遊んでいるのに比べて、研修医をしていると何となく社会的に”働いている”と認知されてしまうことで、本人もそのように思い込んでしまいます。しかしながら上に述べた理由により、プロの研究者を目指す人間としては、遊んでいるのと何ら変わりはないのです。

6. 2~3年研修医をしたらどうなるか

私の経験から言って、「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか考えてみたい」と言って研修医になって、実際に基礎に帰ってきた人は皆無です。それは何故でしょうか?甘やかされてしまって闘争心を失ってしまうからです。研究というのは世界を相手にした闘いです。それはやりがいがあり、一生を賭けるに値するだけのものがあります。しかしその世界に飛び込むためには、ある程度の勇気が必要なことも事実です。「えいっ」と決めてしまう若さが大切で、迷った挙げ句に一度猶予期間をおいてしまうと、もうその勇気が出てこなくなります。

さきほど、2~3年研修医をすることは、2~3年海外旅行へ行って遊んでいるのと全く同じと言いましたが、笹月教授の言を借りれば「遊んでいるよりたちが悪い」とのことです。研修医はその実態は雑用係以外の何者でもありませんが、社会は一応一人前の医者として扱ってくれます。看護婦さんや患者さんからは「先生」とチヤホヤされて、何となく偉くなったような気がします。しかしその反面では、それが単に外見的なものに過ぎないこともよく自覚しているのです。そのような見せかけのプライドの生活を2~3年もすると、実の世界の人達に対して恐れを抱くようになり、そのような虚のない世界に入ることが億劫になってきます。ですから、このような人が再び帰ってくることはまずないのです。

7. 基礎研究者として花が咲かなければ臨床に行くことは可能

臨床と一口に言ってもいろいろな人がおり、それぞれに違う目標を持っています。臨床はそれが許される世界で、個々の目標により自分の生き様を選べます。一度社会人として働いていた人、多浪して大学へ入ってきた人、病気で長く休学してしまった人、等でも受け入れてくれます。基礎研究を目指して挫折した人でも、臨床医として再びチャレンジする人はいます。つまり、どうしても迷いがあるとか、結論を先送りにしなければならないのならば「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか考えてみたい」のではなくて、「とりあえず2~3年基礎研究をしてから、臨床にいくかどうか考えてみたい」というオプションの方が現実的です。2~3年の基礎研究は、その後の臨床研究に役立つことがきっとありますが、2~3年の研修医体験は研究には何の役にも立ちません

8. まとめ

  • 臨床を2~3年してから、基礎研究をするのは最低の選択である。
  • サイエンスの世界は猛烈な勢いで進んでおり、2~3年も遊んでいる場合ではない。
  • 医学部出身者は他の学部出身者に比べて既に3年遅れている。
  • 研修医を2~3年やることに合理性はない。
  • 研修医を2~3年したい、という最大の理由は決断を先延ばしにしたいという甘えである。
  • 一度研修医を2~3年したら、再び基礎研究に帰ってくることはない。
  • 本当にプロの研究者を目指すなら、卒後すぐに研究を始めよう。

No. 4 よくある質問3 – 臨床と基礎研究のそれぞれの良さとは?

1. どちらも素晴らしい、しかし一つしか選べない

私は半年弱の臨床経験しかありませんが、物事の本質(だけ)を見極めるなら、それでも十分な時間でしょう。その前提に立って、言わせていただければ、結論は「どちらも一生を賭けるに値する素晴らしい職業である」けれども、「どちらか一方しか選ぶことができない」ということです。そして人それぞれに適性があって、基礎研究に向いている人、臨床医療に向いている人がいます。それぞれの良さ(悪さ)とは一体何でしょうか?君達の頭の中で、このポイントがはっきりしていないので、将来の選択を思い悩む(又は、全く考えることなしに大勢に従って臨床へ行ってしまう)のです。しかし、そのような指導をしてくれる教官がほとんどいないのが、日本の医学部の現状ですから、君達だけに非があるのではありません。むしろ、日本中の基礎医学研究者がいかに未来の医学に対する投資を疎かにしているか、その怠慢さが責められるべきであると考えます。責任論はさておき、この点に関するポイントを私なりに整理してみました。

2. 臨床の本質は奉仕である

臨床の最も大切な社会的使命は、言うまでもなく病気で苦しむ人々を救うことにあります。残念ながら、臨床医に創造性はあまり必要ではありません。下手な創造力はかえって危険ですらあります。例えば、普通には認められていないような薬を投与したりする内科医や、自分の思い付きで術式を変えてみたりしたがる外科医には、君達も診て欲しくないでしょう?このようなことは一種の人体実験であって、通常では行ってはならないものです。実際に臨床の現場では、かなりの事項がマニュアル化されています。高い知能を持った人が、創造性の許されない職場にいることは、大変辛いことです。それでは、何が彼らを突き動かしているのでしょうか?私には、彼らの大多数にとって報酬とか名誉とかは、最も大切なファクターではないように感じられます。最も大切なことは、自分で自分の人生に満足できるかどうか、その一点にかかっているのではないでしょうか?臨床医にとって最大の喜びは、自分の患者が元気になって、明るい笑顔を取り戻すことであることは、疑いないことであると感じます。それは患者やその家族から感謝されたい、といった俗な精神ではありません。自分が人の役に立ったという満足感なのです。そして、それは奉仕の精神と共通するものがある(というか、ズバリそのもの)と言えます。医療とは人(人類)のための奉仕であるということは、ヒポクラテスの時代から変わらぬ真理です。

3. 基礎医学の本質は創造である

基礎研究においては、他人と同じことをしても全く評価されません。そこには自分なりのテーマ、自分なりの発見が必要で、創造性が最も重要なファクターになります。知能の高い人達にとっては、創造性を発揮して新しい発見をするということは、報酬・名誉・権力といった俗界を超越した、もの凄い喜びがあります。暗室で一人ガッツポーズをしたことも数知れずです(涙したことも同じくらいありますが・・・)。思いがけず大発見をした日は、朝まで興奮で寝られないこともありますし、人によっては興奮のあまり、街を徘徊してしまうこともあるようです(笑)。正直言って、それが人の役に立とうが立つまいが、そんなことはどうでもいいのです。真理の解明、という最も知的好奇心を刺激する美酒に酔いたい、というのが本心です。サイエンスというのは本来そういうもので、「○○病の治療に役立つから」「××症の診断に応用できそうだから」という近視眼的な目的のためにやっているのではないのです。しかし、結果として、それが世のため人のためになればそれでいい、と私は考えていますし、そのくらいの気持ちでなければ大きな社会的貢献につながるような本質的な発見はできないだろうという気合いで研究をしています。そして、基礎研究の社会的な貢献というものは、20~30年後に初めてわかるのであって、現在の我が国のように目先の実利だけを求めたり、判定したりする科学政策は、全く的が外れていて、本当に行く末が心配になります。

4. 臨床医の苦しみはベクトルのズレにある

大学で臨床を行っている医師は、非常に多忙です。何故なら、彼らには「教育・研究・診療」という3つの業務をこなさなければならないからです。多くの場合、時間(現実)の上では診療>>研究>教育であるけれども、本人の意識(情熱)では、研究>診療>>教育の順番であるようです。この現実と情熱の解離が大学病院医師を苦しめ、ダメにしています。どちらにしろ、君達の教育は一番下に位置しているのは事実です(笑)。本来の大学医学部の使命は、教育が最も上位にこなければなりませんが、それも致し方ありません。というのも、現在の大学病院医師の評価システムに、教育というものはほとんど重視されないからです。逆に、研究が評価の大きなファクターとなっています。しかし上に述べたように臨床の最も大切な社会的使命は、言うまでもなく病気の人間を救うことにあり、現実的にそれを無視することができないので、上記のような現実と情熱の解離が発生するのです。言い換えれば、社会的使命(診療)と個人レベルの興味(研究)のベクトルの方向がズレているのです。

5. 臨床医も本当は研究がしたい

通常、真面目に診療に取り組んでいる医師が研究に割くことのできる時間は、本当に少ないようです。週に1~2日あれば良い方です(それ以上している人は臨床医という名の基礎研究者です)。また、実験をしているときに自分の受け持ちの患者が急変すれば、その実験を放棄しなければならないこともあるでしょう。そんな限定された時間でできる研究には、やはり限界があります。どうしてもレベルの低い、他人の研究の焼き直し的なものになってしまうのは避けられません。私達はそういう研究を称して、「鉄銅実験」と嗤っています。鉄でこうだったから、次は銅でやってみましょう、的なもので、このような研究は単に論文のための研究でしかありません。そしてその論文は本人の業績という以外の何の価値も持たないものが大部分です。臨床の大学院生の学位論文審査をしていると、そのような類の論文のあまりの多さに驚きます。しかし本来は頭の良い人の集団ですから、やはり自分の実力を試してみたくなるときがやってきます。真の研究をしてみたい、という強い衝動に駆られるときが、臨床医になって5、6年すると起こるようです。そこで基礎研究者に転向する人もごく少数ながら存在しますが、大部分の人はそのようなフラストレーションを抱えながら、診療と研究の間で悩み、苦しんで、諦めていく、という経過を辿るようです。私の知り合いの臨床医には、本当に頭が良く、人間的にも誠実で、立派な医師が数多くいます。彼らは一様に「あと10歳若かったら、自分も基礎研究へ転向したかも知れない」と言います。そして全ての時間を研究に打ち込むことのできる環境を羨ましがります。彼らのような優秀な人達が大挙して基礎研究に押し寄せてきたら、私は困りますが・・・幸い現在のところ、それはないようです。

6. 評価が単純明快なのが基礎研究のいいところ

基礎研究者は好きな時間に来て、好きなだけ研究をして、好きな時間に帰ります。大きな声では言えませんが、一日3時間しか働かなくても、人が唸るような業績をあげれば誰も文句を言いません。「結果が全て」のこの世界のルールは単純明快で、臨床のようなベクトルのずれはありません。また最近ではインパクト・ファクターという論文の引用率を定量化したものがあって、論文の重要性が数字で表せるようになってきました。インパクト・ファクターで研究の質を推し量ることについては賛否両論がありますが、私は評価を単純にすることができ、それほど実体と大きなズレがないと思っていますので、基本的に賛成です。原則的には、最も価値の高い論文は当然Nature, Cell, Scienceといった国際誌に掲載される可能性が大です。もちろん良い論文が評価の高い科学誌にでないというケース(やその逆)もままありますが、それでも論文の質とインパクト・ファクターには高い相関があると思っています。もちろん相関係数は1にはなりません。インパクト・ファクター反対論者は、その相関が絶対でないことを挙げますが、本来評価の基準に絶対というものはあり得ず、あくまで実体と高い相関を示す価値基準を採用するのだという原則を彼らは無視しています。

7. 絵描きと似顔絵描きの違い

しかし、基礎研究の世界において、評価が単純明快であるということは、必ずしもいいことだけではありません。まず誤魔化しがききません。努力しても報われないことだってあります。学歴や過去の実績が何の役にも立ちません。つまり実力が全ての厳しい世界である、と言っても過言ではありません。その点ではプロスポーツや芸術家と良く似ています。例えて言えば、基礎研究者は一見わけのわからない抽象画を描いている絵描きと一緒です。そこに模倣はありません。独自の創造性とその内容が評価される世界です。絵が売れなければ食うにも困ります。しかし一発当てれば後生にまで残る作品と名声が得られます。それに対して臨床医は似顔絵描きです。創造力に富んだ絵は困ります(街角でピカソの泣く女のような似顔絵を描かれから困るでしょう?)。模倣が大切です。しかし確実に収入は得られます。でも、似顔絵描きだって、本当は自分のオリジナリティーを大切にした普通の絵を描きたいのです。君達、短い、一度きりの人生です。本当の絵を描いてみませんか?

8. 二兎を追うものは一兎をも得ず

初めに言ったように、臨床も基礎研究もどちらも打ち込めば素晴らしい世界です。しかし、他の稿でも書いたように、どちらかに打ち込まなければ、中途半端な人生で終わってしまいます。私個人はもう一度生まれ変わったら、今度は臨床医になってみたいと思っています。私は昨年、母を乳癌で亡くしました。3年にわたる長い闘病でした。九大の第一外科には本当にお世話になりました。そしていろいろな先生方にお世話になり、彼らが患者を第一に考えてくれる本当の医師であることを肌で実感しました。そのときの私はただの患者の家族でした。手を合わせて拝みたい気持ちでした。一人でも多くの人に、そういう安らぎを与えてあげたい、そういう人生も悪くないな、と思います。ですが、残念ながら人生は一度きりです。自分の可能性を試してみたい、自分の知的好奇心の赴くままに生きてみたい、という我が儘な心を抑えることができません。科学者とは本来我が儘なものです。母はそんな息子の我が儘を許してくれるでしょうか。

9. まとめ

  • 臨床も基礎研究もどちらも素晴らしいが、両方はできない。
  • 臨床の本質は人の幸福を願う崇高な精神に拠っている。
  • 臨床の現場では創造性を発揮することは許されない。
  • 基礎研究の本質は創造性にあり、それは人間本来の欲求でもある。
  • 臨床医は現実の義務と個人の欲求との間に深刻なズレがある。
  • 基礎研究者の評価は単純明快で爽やかだが、それだけに厳しい面もある。
  • 二兎を追うものは一兎をも得ず。

No. 5 よくある質問4 – 家庭と研究の両立は可能ですか?

1. 一通のメール

最近、ある学生さんから次のようなメールを戴きました。(中略)「もちろん、そういう考え(家庭を顧みない方が研究者として成功する)のほうが、研究で成功する確率が高くなるとは思いますけれど、研究というのは、必ずしも努力が結果に結びつかない分野だと思うので、何も犠牲にしないからといって、成功する確率がそれほど下がるとは思えないのです。犠牲にするのは、一定の、お金と時間だけでよいと思っています。虫が良すぎるでしょうか?」。敢えて極論すると、「はい、虫が良すぎます」と答えざるを得ません。

2. 努力したヤツが勝つのは当たり前

どんな研究者も人生の100%を研究に投入できる人はいません。しかし、30%の人、50%の人、80%の人とバリエーションがあるのは確かです。「研究というのは、必ずしも努力が結果に結びつかない分野だ」というのは、大局的に見れば間違っています。「大局的」と言ったのは、個々の例を見れば、たまにはあまり努力しなくても成功した人や、凄まじい努力をしているにも関わらず、まったく業績がでない人がいるということです。しかし、例数を増やせば、研究の世界では努力と結果の間に明白な正の相関関係があるのは厳然たる事実です。

科学において(というか競争的な職業全ては)結果=才能 × 努力です。よく学生への例え話に使うのですが、科学は福引きのようなもので、赤い玉がでることが成功、白い玉は不成功とすると、才能=「赤い玉が含まれている確率」で、努力=「回す回数」です。しかし、才能が同じならば、より多く回した方が、赤い玉が出る確率が高いに決まっています。個々の例を見れば、赤い玉が1000個に1つでも、1度目で赤い玉を出す人もいるでしょうし、1000個に500個くらい赤い玉が含まれているにも関わらず、何回やっても出ない人もいるでしょう。でも、例数を増やして客観的に眺めるとき、これらの例外は希釈され、多く回したヤツ(つまりより努力したヤツ)が勝つ、という一般論が導けることは明白です。

3. 家庭型サイエンティストにも二通りある

科学者には家庭を大切にするタイプと家庭を顧みないタイプがいます。私の知り合いでも、家庭を大切にするタイプの研究者がかなりいます。そのうち8割は科学者として競争的な仕事をするのに不適格です。しかし残りの2割は、家庭を顧みないタイプの研究者と互角に仕事をしています。何が異なるのでしょうか?最大の違いは、ダメグループは「仕事も大切だが、家庭も大切である」という論理を基に自分自身に言い訳を作っています。自分に言い訳ができると、人間弱いもので、低い方へどんどん流されて行きます。

良い方のグループは、自分がハンデを負っていることを十分理解しています。重い荷物を背負ってマラソンをして、さらに何も背負っていない奴に勝たなければならない、という覚悟があります。このタイプは、限られた時間の中でものすごく集中して仕事をこなします。そしてどうしても必要な場合は、ある程度家庭を犠牲にする柔軟性も持ち合わせています。こういうタイプの人は、ある程度時間をやれば着実に結果を出していきます。

4. 人生の成功って何だろう?

科学は競争ですから、なるべく有利な条件で闘うヤツが勝つ確率が高いのは、ある意味当たり前です。ここで整理して考えたいのは、「研究生活で勝つことが果たして幸せな人生かどうか?」、です。ここには多種多様な考え方があり、「幸福とは何か」という哲学の最大の命題にぶち当たります。実は私もそう言われると迷ってしまいます。

しかし、観念論を捨てて経験論から物事を見たとき、私は「研究生活で勝つことが幸せな人生だ」と確信せざるを得ません。家庭を研究より上位に位置づける人は、仕事での評価は低くなり、社会的な地位も低いままで、人間としてのプライドがどんどん矮小化してきて、脹らみのない男(女性の方、ごめんなさい)になってしまうと思うからです。古い考えかも知れませんが、男は仕事が出来てナンボだと思いますし、そういう男でないと女性にもモテませんし、そういう男に惚れる女性でなければ人生を共有するに値する相手ではないです(笑)。

特に研究者として一人前になる前に、「家庭が・・・」という人は、問題があります。家庭が幸せになるためには、まず自分が仕事人としてしっかりした社会基盤を持つことが何よりも重要です。そのためには、ある一定時期、家庭を顧みずに働くことも必要でしょう。逆説的ですが、「家庭を顧みないこと」が結局は将来的に「家庭の幸せ」につながると私は思います。そしてそれを理解できないか、または実践できない人が沈んでいくのだと、そういう例をまのあたりにする度に、感じています。

5. 所詮全ては得られない

とにかく私のアドバイスは、「自分に言い訳をするな」ということです。競争社会は君達の個人的な都合なんか、全く顧みてくれません。それを自覚するものだけに、成功は訪れます。家庭を大切にすること自体は決して悪いことではありませんし、それが人生における幸福の大きなファクターであることは間違いありません。しかし、そのために沈んでいく多くの人を目の前でいつも見ているので、そうならないように君たちには是非とも一言忠告したいです。

私が好きな言葉に次のようなものがあります。

You can’t have everything.

長々書いてきましたが、とどのつまり言いたいことはこれだけです。

6. まとめ

  • 努力と結果は、大局的に見れば正の相関関係にある。
  • 家庭型サイエンティストの8割は結局人生においても敗者になってしまう。
  • 自分に言い訳を持った時点で、低い方に流されていく。
  • 家庭を大切にしながら科学をすることは人一倍の努力が必要。
  • 全てで成功しようと考えるのは、虫が良すぎる。

No. 6 よくある質問5 – 科学は競争か?

1. 最も多い批判

本HPも最近読者が増えてきたようで、各地へセミナーに行くと、必ず「HP読んでいます」と声をかけられるようになりました。この文章は元々九大医学部の学生に向けて書いたものですが、共感して下さる方は九大医学部生よりも、私と同じ立場にある他大学の教官の方が多いようです。最近多忙にかこつけてなかなか更新できずにいましたが、年賀状に更新を求めるお手紙が何通かあったことから、もう少し頻繁に更新しようと考えています(笑)。

さて、このHPの読者が増えるに従い、いろいろなご批判のメールを戴くことも増えてきました。それもほとんどがある一点に関するご意見です。それは前回「家庭との両立は可能か?」の中でほとんど無意識に書いた一文「科学は競争ですから・・・」についてです。批判の内容は、「科学とは競争ではなく、未知の現象を解明したいという自己の欲求を追求するものである」「科学を個人的な競争や栄達のためにすることはけしからん。科学は社会の利益に還元されるべきものだ」というものが大部分でした。

私のいう「競争」とは、誰でも思い付く実験を誰よりも早くやる(クローニング競争とかノックアウト競争とか)という意味で使ったのではなく(時にはそういう実験も必要ですが)、他人よりいかに独創的で、科学界から認められるような仕事を、人より早く、多く、抜きん出てするか、という意味で用いたものです。それをご了解の上でお読み下さい。

2. 理想的科学者 vs. 現実的科学者

さて、無意識に「科学は競争ですから・・・」と書いてしまった私は、このリアクションを見て、なるほどと思いました。それは私がいつも抱えている「科学者とは何か」という疑問と全く一致するからです。私はその答えを見つけるべくいつも思い悩んでいるのですが、皆そうなのだなと。つまり多くの人(私も含めて)の頭にある理想の科学者像というのは、世間の流行など関係なく、自分自身の独創性の下に発見した生命現象について、世間の評価とは関係なく長年それについて独自の研究を重ね、ついには誰もが考えつかなかった大いなる理論の確立に至る、という求道者のようなもので、それに比して現在の多くの科学者は、世間の流行に流され、Cell・Nature・Science誌に論文を載せることだけを目標とし、Impact factorにしか興味がなく、周りの研究者との競争に明け暮れている、という俗悪な存在でしかないと。科学者は「科学が好きだから」科学をすべきであり、競争のために科学をすべきではない、というのが多くのご批判の趣旨でした。科学者はどちらであるべきなのでしょうか?前者を理想的科学者、後者を現実的科学者と定義して以下の議論をしたいと思います。

理想的科学者の方が、できればいいに決まっていますが、当然の疑問としては、「独自」の研究が果たして本当に「価値のある」研究なのか、という点があります。単に自己満足ではないのか?他人が興味を示さないような重箱の隅をつついているだけなのではないか?と訊かれるでしょう。私は「社会のために研究をしている」というのは誤りだと思っていますので、どんな自己満足的な研究をしても構わないと思いますが、やはり最終的には世間から評価されるような「なるほど」と思わせるような研究をしたいと思っています。

理想的科学者は世間の評価を気にしない、ということは現実的に研究費が取れないという問題点に突き当たります。鉛筆と紙だけで研究できる時代ではないのですから、評価を得ない限り研究の長期間にわたる継続は困難でしょう。つまり私達は、ホームランも狙いつつ、ある程度の打率を残さなければ一軍には残れない、というジレンマを抱えているのです。どちらがいいということではなく、理想を目指しつつも現実も疎かにしないのが、大人の対応というやつでしょうか(笑)。

3. 創造は評価と共にある

「科学が好きだから」「真実を知りたいと願う欲求は科学の本質」ということはごもっともですし、私も同感です。しかし、それだけではないこともまた真実です。よく私が使う例えに、科学者は芸術家のようなもの、またはプロスポーツ選手のようなもの、というのがあります。絵描きは絵を描くのが好きなのです。しかしながら、もしそれだけなら、自宅でコツコツ絵を描いていて毎日それを眺めていればいいでしょう。野球が好きなら裏庭でキャッチボールをしていればいいではないですか。でも絵描きであれ、作曲家であれ、自分の作品を世に問い、その価値を認めてもらおうとすることはごく自然の感情であり、私達はそれに対して特に違和感を覚えません。プロ野球選手が巨人に入りたがるのも、理解できますね。サイエンティストも同じです。人間の創造活動というのは、世の評価と表裏一体のものなのです。だから「好きだから」だけではアマチュアというか、それ以前の問題のような気がするのです。

4. 「科学は競争ではない」のウソ

私を含め、多くの現役サイエンティストなら誰でも「科学は競争ではない」と言われると苦笑してしまうでしょう。ある著名な科学者の言葉ですが、「大発見をしたその翌日から競争になる」そうです。好むと好まざるとに関わらず、私達の世界では競争の中に生きることは止むを得ません。常に大発見ばかりできる人ならば別ですが、私のように悩める科学者の多くはそうではありません。ノーベル賞を受賞した小柴博士は、アメリカで同様のニュートリノ検出器を作っていたのを知っていたそうですが、その競争に勝って今の栄光を手にされました。このようなことは生物学でも枚挙に暇がありません。競争は必然であり、避けては通れないものであり、ときには好んですることもあるものなのです。

5. CNSを目指して何が悪い?

誤解のないように言っておきますが、私は独創的な仕事を否定しているのはないし、他人の研究の二番煎じのような実験を推奨しているわけではありません。多くの臨床医がやっているような、肺癌ではこうだから、肝癌ではどうか?食道癌ではどうか?なんていう論文にはウンザリしています(医学部の学位論文は80%くらいこんなのです)。研究としては独創的でなければ意味がないと思っています。しかしパラダイムを打ち立てるようなマイルストーン的研究はなかなか難しいと実感しています。過去のそのような素晴らしい研究を見ると、幸運に恵まれなければできないことも多いと思います。しかし、「幸運は準備されたところに来る」といいますから、やはりしっかりした実力を持って常に独創的な研究をしたいと思っています。そしてそのような研究をしていれば、結果的にいい雑誌に掲載される機会も増えるでしょう。皆がそう思っている雑誌は当然人気が集まりますが、掲載できる論文数には限りがありますから必然的に競争になりますね。よく読まれる雑誌は引用される機会も増え、Impact factorも高くなるのはしょうがありません。私は内心「俗な表現だな」と思いつつも、誤解を覚悟で「Cell・Nature・Science以外は論文ではない」と若い人を鼓舞しています。昔は本当にそう思っていました(笑)。当時(ポスドク)のときは米国の一流研究室にいたこともあり、少なくとも一年に一報はラボからCell・Nature・Scienceが出ていたので、ラボで一番いい仕事をすれば、そのようなジャーナルに出せるものだと思っていました。今では、「多くの人に感動を持って読まれるような良い論文を書け」というつもりでそう言っています。では、そう言えばいいのに、という人もいますが、目標は端的で、かつ明確な方がいいのです。若い人たち、Cell・Nature・Science目指して頑張りましょう!

6. 日教組教育の弊害

科学にとどまらず、多くの創造性の要求される仕事には、非常に過酷な競争が必然的に存在します。それは「人・社会に認められたい」という人間本来の共通の欲求があるからかです。その欲求を否定すれば、今の科学・芸術・スポーツその他多くの文化はあり得なかったでしょう。社会主義の崩壊が持つ最も大きな教訓は、まさにこのことでした。しかしながら、私に「科学が競争とはけしからん」とメールを送ってきてくれた人たちから共通して受ける印象というか臭いは、「競争」=「悪」という単純な図式のインプリンティングです。もちろん初めに述べたように、創造性のない競争は悪いものです。そう思っているので、私は初め大学院教授会で一人だけ、その手の論文には「否」を入れていました(いつも49対1程度だったですが)。しかし、競争を否定するような間違った教育は、誰がどうやって導入したのでしょう?最近の若い人達には、特にいい意味での「競争心」が足りないように思うのは私だけでしょうか?戦後50年のいわゆる日教組教育はいろいろな意味で間違っていたと思いますが、「競争の否定」ほど困ったものはありません。最近は「ゆとりの教育」で円周率が3になったと言いますが、私達は3.14という変な数字だからこそ、実はもっともっと割り切れないものがあるのではないかと想像するのではないでしょうか?才子異国に婿。全くこの国の教育方針には辟易することが少なくありませんね。

7. まとめ

  • 競争は独創性のぶつかり合いである。
  • 世間の評価から解き放たれた科学者は理想だが、現実的には存在し得ない。
  • 文化的創造は全て世の評価を受けて存在する。
  • 多くの人に感動を持って読まれるような良い論文を書くべし。
  • 競争=悪の呪縛から逃れよう。

「幻の原稿」編 『Q&Aで答える 基礎研究のススメ』

「幻の原稿」 始 末

この原稿は、もともとY社の「実○医学」に全10回という長期連載シリーズ『Q&Aで答える 基礎研究のススメ』のために、このHPにある「教授からのメッセージ」を大幅に加筆修正したものです。昨年の夏休みの大部分と、その後のちょっとした時間に少しずつ書きため、ゲラ校正も終わってやっと発刊、というときにボツになった「幻の原稿」です。

ボツになった理由は、「内容が過激だから」です(笑)。実はわれながら、こんな文章を本当に「実○医学」が出す勇気があるのだろうかとずっと疑っていました。また評価も完全に二分されるだろうと思いました。自分では正論と思っていますし、それを読み取って理解して下さる方も多いでしょう。しかし表面上の逆説的表現に神経を逆なでされる方もいるのではないかと私自身が危惧していました。

3、4回の推敲によって大幅に表現をマイルドにして何とか掲載に漕ぎ着けようとしたのですが、要は表現の問題ではなく、内容自体の問題だったので、仕方がないと思って諦めました(泣)。内容を大幅に改変して、何の主張もない、当たり障りない空疎な文章を公に発表することは、読者を愚弄するばかりでなく、私の主義にも反します。私はこの主張が決して臨床医や企業の方から反発を買うものではないと信じていますが、まあそれも今となってはどうでもいいことです。とにかく私が「表現は変えられても、主義主張は変えられない」と突っ張ったので、掲載は見送りになり、「実○医学」には穴を開けました。Y社編集部の方、ごめんなさい。

以上のような経緯で、全10回のうち初めの4回分の原稿をHP上で公開することにしました。一部に「教授からのメッセージ」と重複する箇所もありますが、推敲し直して手を加えてありますので、もう一度ご賞味下されば幸いです。5回目も途中までは書いてありますし、暇を見つけては続きを書くつもりですが、いつのことになるかはわかりません(あまり期待しないで下さい)。もし、出版してもいいよ、という骨のある編集者の方がいらっしゃいましたら、頑張って全部書きますので、どうか宜しくお願い申し上げます((笑))。

基礎研究とは、個人にとっては人生における最高の美酒である「知的好奇心」を満たすだけでなく、社会にとっては「将来への投資」です。一時、米百俵の話が巷で人気を博したこともありましたが、現在の日本が行っていることは、「米が百俵あるのでみんな食べましょう」と言っていることに過ぎません。一部は種籾として蒔きましょうよ、というのが私の主張でもあります。

基礎研究に関する誤った情報が巷に氾濫しているのを私は非常に憂慮しています。また多くの若者が、ろくな情報を持たないで、雰囲気だけで人生を決めてしまうその軽躁さにも呆れています。人生をどうするかは「目標」と「戦略」が何よりも大切です。何を目指すのか、どのように達成するか。それは理性的に決定できる筈です。そのガイドとして読んで下されば、このボツ原稿も浮かばれることかと存じます。

第1章 立志飛翔編(学部学生に向けて)

その1 ー 科学者を目指すに当たって

「残念ながら現在のままでは受理できません」。おなじみのフレーズですね。Natureからの返事?いいえ、本連載の初稿を入稿したときの○○社編集部からのコメントです。初稿では、以前HP (https://nakayama-lab.org/) に書いた文章を適当にリライトしたのですが、よく見ればとても公の出版物には載せられないような表現だらけで、結局は大幅に書き直す羽目となりました。また本連載は元々、進路に悩む学生のための企画でしたが、対象を学生だけではなく若手研究者を含めた範囲に広げて欲しいとの編集部からの要望に応えるべく、かなりの部分を追加しました。

名なり功遂げた大御所ならいざ知らず、私のような駆出しが本業以外の執筆活動を引き受けることは、本来あまり感心すべきことではありません。当研究室の学生達からはただでさえ遅れがちな論文執筆がますます遅くなりそうで不興を買っています。しかしながら、あまりに将来への投資を怠っているわが国の科学政策、若者の戦略のなさ、誤った情報の洪水、等はまさに目を覆わんばかりです。巷には見識の高い人は数多くいますが、矛盾を世に問い、悪弊を正そうとする人はごく僅かしかいません。誰かがこの悪循環に一石を投じなければならないとき、初めに石を投げるのは決まって「お調子者」ですが、歴史はそのような人達によって動かされてきたと言うこともできます。軽率の批判は甘受することにして、この機会に常日頃感じていることをQ&Aの形を借りて述べてみることにしました。

本連載は若手研究者の一般的な悩みに対する私の個人的な意見だということをまずお断りしておきます。大多数の意見でもなければ、○○社の意見でもありません。また基本的に物事には多面性があることは十分認識していますが、一個人の意見が玉虫色であることは私の最も嫌うところであり(それは単に優柔不断、八方美人に過ぎません)、結論は断定的になっています。しかし、単に独断を弁ずるだけでも人を納得させることはできないのも現実です。要は、なぜそのような考えに至ったか、という論理・理屈が大切であって、脳髄絞って論旨を展開していくつもりなので、その過程で多種多様な考え方があることもご紹介できるでしょう。まずは、断定的な結論をA.として先に述べてしまおうと思います。それは、論理展開が理解しやすいと考えたからです。ですから、結論だけで否定的にならずに、その後の論調もしっかり読んでいただければ幸いです

Q1. 目指すべき科学者像とはどういうものですか?
A1. 目指すべきは世界一流のクリエーターです。

そうですね、まず目指すべき目標をはっきり定義しなくてはこの連載は成立しません。そこでまず皆さんにお伺いしますが、科学者とはどんな職業かご存知ですか?そう、科学者というのはかなり特殊な職業なのです。世間の職業には、大きく分けて二種類あります。ルーチンワーカーとクリエーターです。前者は、例えば市役所の住民票係とか、福岡から東京へ魚を運んでいるトラックドライバー等です。基本的には毎日同じことの繰り返しですし、そこに勝手な個性を出すことはあまり勧められたものではありません。よく見回せば世の中のほとんどの仕事は極論すればルーチンワークなのです。クリエイティブなことをしているつもりの人でも、俯瞰的に見れば単なるバリエーションの多い選択肢の中からの機械的なチョイスであったりすることがほとんどです。真のクリエーターは非常に少ないし、私の勝手な想像では全人口の1%未満だと思いますよ。

しかしルーチンワーカーも少しは個性を発揮したい。例えばトラックを個性的な電飾でギンギラにするのはその典型です。でもそれらは本業である運送自体には関係のないところでやっているのであって、仕事本来の内容にはクリエイティブなことはほとんどありませんし、あっては世の中が成り立たないのです。ただこの例に象徴されるように、人間誰でも個を主張したい欲求というのが非常に強くあるのです。そして個を主張すること自体で日々の糧を稼いでいる人=クリエーターであり、この定義から言えば、サイエンティストはクリエーターの典型のような商売です。客観的には非常に贅沢で恵まれた職業と言わざるを得ません。

ではクリエイティブな仕事とはどんなものでしょうか?一番わかりやすい例は芸術家でしょう。作家や画家、作曲家は人と同じものを創り出しても全く評価されません。新たな価値を創造・付加することこそがクリエーターの宿命です。この点で科学者も全く同じだということはわかりますね。もちろんジャンルといった大きな括りはありますが、それすら創り出してしまうような、未踏の大地に足を踏み入れる行為が、科学者を含めたクリエーターの究極の目標でしょう。これらクリエーターには国境の壁はありませんから、当然世界を相手にしていくことになります。私はプロスポーツ人もクリエーターに入ると思いますし、後で述べるように、特に野球やサッカーなどの団体競技のプロスポーツ人と科学者は、その生涯において非常に似たところがあります。私達が目指すべきは、イチローや松井になることです。つまり、世界一流と言われるクリエーターとなることが究極の目標でしょう。

Q2. プロ野球選手と科学者が似ているってどういうことですか?
A2. どちらも選手から監督へなっていく。

プロ野球選手やプロサッカー選手は、どんなに優秀な選手でも、いつかは監督としてチームを率いていくようになります。科学者も同じです。科学者と言っても、院生・ポスドク・助手・助教授・教授といろいろな種類があるように思うかも知れませんが、実は科学者には二種類しかありません。PI(Principle investigator:ラボの主宰者)とそれ以外です。つまり選手(non-PI)と監督(PI)の二種類です。一般的には院生→ポスドク→助手→助教授→教授と段階的に業務が変化していくと思われがちです。社会的な地位に関してはそれで正しいのですが、科学的にはそうではなく、次の二段階しかないのです。選手(院生・ポスドク・助手・助教授)→監督(教授)です。このことは重要なポイントで、「オレは助教授だから」、「私は助手だから」という認識ではいけません。監督以外は皆選手であり、学生・ポスドクとその科学的立場に何の違いもないのです。PIでもないのに、中途半端な立場で中間管理職に甘んじている人が非常に多く見受けられます。私はそのような人達を「コーチ」と呼んでいますが、コーチになるな、というのが私の哲学です。これはいずれ述べる機会があるでしょう。

米国ではこの「選手→監督」の二段階制がかなりはっきりしています。日本で言うところの助手や助教授レベルの人は基本的に独立してラボを運営しているため、PIに相当します。PIの下は全て同列であり、ポスドクが学生の上という意識は希薄です。私が留学して一番驚いたのは、ラボ内でポスドクが誰も学生の面倒を見ない、ということでした(もちろんアドバイス程度ならいくらでもありますが)。そこで親切心で学生の実験をいろいろ手伝っていたら、ボスから”Keiichi, it’s not your job”とたしなめられ、初めて日本との違いに気が付きました。また学生の方も、ポスドクを先輩として敬う気持ちはあまりないように感じました。PIの下は全て均一、私が米国で見た良い制度の一つです。

Q3. ではnon-PIとPIの役割の違いって何ですか?
A3. 個人の業績とチームの勝利という目標の違い。

選手(non-PI)の仕事はあくまで個人プレーで、チームがどうなろうが、自分の実績を上げる、という点にあります。もちろんチームの状態が良い方が、結果的には個人にも有利なことが多いですから、たまには送りバンドすることもあります。が、基本的にはヒットを打ち、ホームランを打たなければ決して評価はされません。科学者で言えば、ファーストオーサーとしてなるべくレベルの高い論文を発表することです。

それに対して監督(PI)はあくまでチームの勝利を目指すのが目標です。時には非情な決断をしなければならないときもありますが、それがチーム全体のメリットになるならば、決断するのが将たるものの務めです。この世の中、全員が同様に幸せになれるわけはなく、当然ラボ内でもハッピーな人、そうでない人、いろいろいると思いますが、その総合値をなるべく高くするのが監督の役目です。

プロスポーツでも科学者でも、本来、監督の能力や適性は選手のそれと異なっていると思いますが、現実的には優秀な実績を残した選手が監督になっていくケースがほとんどです。選手としては優秀でも、監督になったらサッパリ、という人も数多くいます。逆に選手時代にはそれほどでもなかった人が監督として大成功を収める可能性もあるでしょうが、科学者の世界では選手としてサッパリだった人が監督になることはほとんどありません。つまり監督としての才能を的確に見抜く方法がなく、選手時代の才能の外挿からでしか判断ができない、というのが現状のようです。つまり選手としても偉大で、その後名監督になる、というのが私達の究極のエリートコースなのでしょう。王貞治はそうですね。長嶋茂雄はどうでしょう?

Q4. 科学者としての素質って何ですか。
A4. 科学者の素質は論理性です。

まず多くの人が持っている誤解があります。皆さんは研究者のイメージとして、「誰にも考えつかないような突飛なアイデアをどんどん思いつく」エジソンやアインシュタインみたいな人を想像していませんか?研究はしてみたいけど、自分にはそんな能力が果たしてあるのだろうか、と不安に思っているのではないですか?実は「私は科学者としての素質があるのでしょうか?」という類の質問は、私のところへ切羽詰まった表情をして来る学生さんから聞く質問の中で最も多いものなのです。

生命科学者に求められる第一の資質は、意外に思われるかも知れませんが、「論理性」なのです。つまり、突飛なアイデアではなくて、A→B、B→C、故にA→Cというような、確実で緻密な思考能力が要求されます。だから天才でなくてもできます、大丈夫。大発見は往々にして、論理体系の中から論理にはずれるものとして顔を出してきます。論理性がなければ論理にはずれたものを認識できませんから、貴重な機会を逃してしまうでしょう。

「では私には論理性があるのでしょうか?」と問われると、これは本当に難しい。短時間のうちにそれを見抜く方法があればこちらが聞きたいくらいです。私の尊敬する産総研のN先生は論理性の鬼のような方ですから、「是非とも」とお願いして素質を見抜く方法を尋ねました。そこでリクルートにおける二つのポイントを教えてくれました。一つ「履歴書を自筆で書かせる」。なるほどこれなら私でも、候補者がどのくらい熱意があるか、注意深いか、自己を的確にアピールできるか、等はわかります。でももう一つは「目を見ればわかる!」。これは私にはちょっと無理だな(笑)。

もちろん実験させればある程度見抜く自信はあります。実験で一番差が出るのは、私の経験ではサザンブロッティングです。ノザンやウェスタンは発現量によってシグナルが大きく異なりますが、ゲノムのサザンは基本的には2コピー/細胞ですから、比較的フェアに評価できますし、ブロッティングは結果を得るまでに様々な行程を経ますから、その間の多くの押さえるべきポイントを理論的に把握できている人だけが、最終的にきれいな結果に到達できるのです。シャープなコントラストの利いたオートラを持ってくる学生もいれば、バックが高くて闇夜のカラス状態とか、目一杯笑った(スマイリングした)バンドが並んだフィルムを持ってくる学生もいて、いろいろですね。とにかくサザンの綺麗さと科学的センスは大変良く相関すると思っています。あなたはどうですか?

Q5. 学歴と科学者とのしての能力に相関はありますか?
A5. かなりありますが、絶対ではありません。

どんな商売にも当てはまることでしょうが、優秀な科学者の素養として、論理的に物を考える力やその基盤となる一般的な知識は必ず必要ですし、何より「与えられた課題に立ち向かって、それを超えていく」能力は必須であることは言わずもがなです。そしてその能力が遺伝的な形質と幼少時からのトレーニングによるとすれば、18歳の時点における一つのハードル、即ち大学受験の際にその能力が反映されるのは明らかでしょう。現実的に私の経験では、70%位は相関するような気がします。しかし、学歴といわゆる「頭の良さ」は完全に比例するかというと、そうでもないようですね。むしろ「努力の仕方を知っている」ことに比例するように感じます。そういう人は、科学をやっても着実に伸びていきます。しかし私が今までに出会ったいわゆる「天才型」の科学者はどうもあまりこのカテゴリーに入らない人が多いようです。それはなぜでしょうか?

答えは簡単で、現在の大学受験のシステムが、オールラウンドプレイヤーでなければ高得点を取れないような仕組みになっているからです。世の中には、たまに「理科バカ」がいて、こういう人は国語や英語、社会などは全くできません(興味が湧かないようです)。でも理科だけはやたら強い。こういう人がサイエンスをやると、やはり好きなだけあって、のめり込むように研究するので、根本的な論理力があれば、飛躍的に能力を開花させます。もちろんこういう人の中にもあまり論理構築力がない人がいて、数多の実験はするけれども論文をまとめることができない科学者(実験オタク)になります。ただ、こういう人はいい指導者やパートナーに恵まれると、優れた科学者に変身するケースを見たことがあります。

Q6. 大学院はどのようなラボに行くべきですか?
A6. 大学院生時代を過ごすラボは、一流のラボに行くべし。

全ての職業はそうですが、誰でも努力すればスーパースターになれるわけではありません。残念ながら、研究者として成功するための十分条件を明確に規定することはできません。しかし、その必要条件は明らかです。それは大学院生時代を過ごすラボは、一流のラボに行け、ということです。

大学院生のときの教育がその人の科学者としての基盤を形成することは明らかです。また一流のラボに行けばそれだけ一流の研究をできる可能性があり、科学者としての業績を積むことができ、さらに次のステップ(ポスドク)で一流の研究室へ進むことができます。大学院生のときの業績はラボの実力に依存する部分が多いので、いかにあなたが優秀でも、もし実力のないラボに行ったら業績は出ず、いいところへポスドクも行けず、結局いいポストにも就けない、というmalignant cycleに入る危険性が大です。

いわゆるメジャーと言われているラボの陥穽は、むしろ本人自身にあります。大学院時代のラボというのは一段目のロケットブースターで、大学院卒業後は二段目のエンジンに点火して、さらに加速しなければなりません。良いラボでは、テーマも面白いものを与えられ、実験もいろいろと指導を受け、いい業績を挙げるという「動く階段(エスカレーター)」になっています。しかしそのエスカレーターに乗ってのほほんとしていると、二段目のエンジンを鍛えることを忘れがちです。大学院時代にすべきことは二段目のエンジンを強力にすること、即ち知識と論理性を身につけることです。だから大学院生のときにNatureが出なくても構わない、むしろ論理構築と再現性のしっかりしたfull paperをJBCに出して欲しい。でもポスドクになったらそれだけではダメですよ。

Q7. 科学者は赤貧に甘んじなければならないってホント?
A7. 全くのデタラメです。

研究者の収入に関してはいろいろな迷信やデマが飛び交っており、若くて優秀な人材がこの業界を目指すことにとって大きな障害になっていることを私は大変憂慮しています。研究者人生がハイリスク・ハイリターンであることは否定しませんが、給料は決して低くありません。一般的にはリッチと考えられている臨床医でも、大学に勤務している限り、私達と同じ給与体系の上にあるので本給は同じです。むしろ研究者の方が一般的に昇進が早いので、本給に限って言えば研究者の方が臨床医よりも高いケースが多いのではないかと思います。しかし臨床医にはアルバイトで高給を稼ぐというメリットがあります。私の知り合いのケースで比較すると、ある研究者(40歳、大学教授)と臨床医(40歳、大学助手)を比較すると、研究者は本給1000万円、その他原稿料や講演料で100万円で年収1100万円、臨床医は本給700万円、バイト400万円でやはり年収1100万円。ほぼ同じですね。実際には1~2割の上下があると思いますが、私の感覚からすれば大体こんなところです。私がいた企業でも40歳の課長クラスで1000~1200万円だったので、それほど大きな差はないのでは?と感じます。

但し、この比較は本当はあまりフェアではありません。40歳の時点で、研究者で教授になる確率と、臨床医で助手になる確率は相当な開きがあるからです。つまり、「うまくいけば」まあまあ稼げるようになる、という表現が最も正しいと思います。研究者で助手でしたら年収700万円程度でしょうが、これを「赤貧」と称するかどうかはかなり疑問です。もちろん「リッチ」とは到底言えないとは思いますが、それでも「そこそこ」かと。ハイリスク・ハイリターンと言ってもこの位のリスクなのだから、やはり割のいい商売ではないでしょうか?またもう一つ故意に無視したポイントは、研究者は大学院卒業、すなわち早くても27~8歳まで収入がないという点です。これは生涯年収という観点から見れば、臨床医や企業人と比較してデメリットであると言えるでしょう。でも今後は違うかも知れません。特許で数百億稼ぐ人がいる時代ですから、もしかすると皆さんも研究で億万長者になれる時代が来るかもしれませんね。

そもそも、研究者は「金を稼ぐ」ことを人生第一の目標としていない人がほとんどです。私自身も食うに困らなければそれでいいと思っています。別にベンツに乗りたくもないし、ゴルフ三昧の生活がしたいわけでもありません。研究には、それらよりも格段にエキサイティングなものがあるのですよ。つまらないことをして金を稼ぐことに汲々とするよりも、歓喜と驚きで体中の血が逆流するような思い(滅多にありませんが・・・)を味わえる職業の方が遙かに恵まれていると思いませんか?

第1回まとめ

まず総論として、世の中の商売はルーチンワーカーとクリエーターに分けられること、科学者は典型的なクリエーターであること、を述べました。またその素質や大学院の選び方、収入などについて考察をしましたね。ではルーチンワーカーとは何か、賢明な読者諸君はもうおわかりのことと思います。次回から三回にわたって企業人・臨床医と基礎研究者がどのように違うのか、皆さんが本当にクリエイティブな人生を送りたいならばどのような選択をすべきなのか、を述べたいと思います。乞うご期待。

第1章 立志飛翔編(学部学生に向けて)

その2 ー 研究者への道(非医学系編):大学か企業か

前回は科学者とは何か、どのような魅力があるのかについての総論的な質問に答えました。科学者とはクリエーターであって、ルーチンワーカーではなく、その素晴らしさもリスクも全てクリエーターならではのものだということを強調してきました。しかし現実の世の中には、科学者を目指そうとしているのにルーチンワーカーの道を選んでしまっている中途半端な人がゴマンといます。そこで今回から三回連続で科学者になるための「道」について論じたいと思います。ただ、この話題に関しては医学系と非医学系ではかなり異なるので、今回は「大学か企業か」という点について、次回・次々回は「基礎か臨床か」という点について、考察することとします。

私は、大学→政府系研究所→留学→企業→大学、というようにいろいろな環境を経験してきたちょっと変わった経歴を持っていますから、どちらか一方しか知らない人よりは比較論を語る資格はあると思っていますが、何分例数は多くないので、もしかするとかなり偏った見方になっているかも知れません。その点はご海容願います。しかし、短い間とはいえ、企業に在籍した一年半は毎日がカルチャーショックであり、良きも悪きも得難い経験を積んだことは確かです。その貴重な(?)経験に基づいて、研究者になるためには大学と企業のどちらが良いのかを考えてみましょう。

Q8. 研究したいのですが、企業でもできますか?
A8. あまり期待しない方が賢明ですね。

私は医学部出身ですが、大学と企業と両方に勤めた経験のある変わり種ですので、両者の長所・短所については肌身を持って感じることができます。と言っても、会社は各々かなり違うみたいなのであまり一般化はできませんが、しかしながら企業の目的というのは営利を追求することですから、その点では全ての会社は同じでしょう。その点を踏まえて敢えて断言すれば、「企業に行くことはクリエーターとして最も大切なもの、すなわち『研究の自由』を放棄すること」です。

先に誤解のないように言っておきますが、私は決して「企業の方が大学よりも研究レベルが低い」と言っているのではありません。むしろ企業の方がモラルが高く、平均的には優秀な人材が揃っている気がします。あくまで一般論ですが、企業に勤める研究者の方が広い知識を有し、常識的で、きちんとした仕事をする傾向があるように思えます。それに対して大学の研究者は、なんとなく社会的には幼稚で、無茶苦茶な人やいい加減な人の割合が多いのは皆が認めるところでしょう(?)。

では、なぜ企業には研究の自由がないのか?という点について説明します。研究には長期的に予め決まったストーリーがありません。そんなものがわかっていたら、そんなにエキサイティングではないでしょう?5年前に現在の自分の研究テーマを予言できましたか?今から5年後に自分が何をしているか書けますか?しばしばグラントの申請書に5年後の実験計画とか書かせるものがありますけど、全くナンセンスですね。話が逸れましたが、言いたいことは研究は筋書きのないドラマで、どう展開するかなんて予想できない、だから面白い、ということです。

営利を目的とする団体に入って、「研究は筋書きのない・・・」とか言ってみるとどうなるか想像してみて下さい。例えば癌に関わる分子aに注目して実験をしているとしましょう。あるときaが癌ではなく、免疫に関わる大切な分子であることを発見しても、「ウチは免疫はやらないって、上層部が決めたから」の一言でその研究はお終いです。あるいはaの癌における役割の研究が順調に進んでいたとします。しかし企業というのは大体数年毎に研究方針の見直しがあり、その場で「抗癌剤開発から撤退しよう」と決まれば、うまくいっている研究でもそこで中止して、全く新しいテーマを行わなければなりません。あなた個人にとって面白いか面白くないか、なんて企業にとっては全く関係ないのです。むしろ半端に青臭くて、自分のしたいことを強引に主張するタイプの人間を企業は嫌います。何をしたいかも自分で決められず、していることが理不尽に変更を余儀なくされる、これで科学者と言えますか?否、単に実験をしているサラリーマンと呼ぶべきものでしょう。これでは科学の本当の喜びを知ることは困難です。「いや、オレは企業で好きなことをやらせてもらっているよ」という人は、たまたまあなたが行っていることが企業の目的と一致しているからに過ぎません。それも永続する保証はどこにもありません。さらに言えば、きっとあなたもどこかで大学ではないような種々の科学的制約を受けているはずです。例え本人は気が付かないとしても。

Q9. 研究の自由とはそれほど大切なものですか。
A9. 研究の自由は科学者にとっても最も大切なものです。

「研究の自由がない」ということは、本来研究者にとってはもの凄いストレスの筈です。大学にいるとそういうストレスはほとんど感じませんが、逆に企業ではそれがあまりにも日常茶飯事であるために多くの研究者が鈍感になっています。だから私のように大学から企業へいきなり行くと、あまりのカルチャーショックに茫然とするのはむしろ当然のリアクションだと言えるでしょう。研究の自由は、科学者というクリエーターにとっての最も大切な「権利」なのです。レオナルド・ダ・ヴィンチが、パトロンからお金をもらって「あなたはモナリザが笑うところだけを一生描き続けなさい」と言われて「ハイ」と言うと思いますか?それはもうクリエーターではなく、ルーチンワーカーです。「受胎告知」も「最後の晩餐」も描きたいのです。好きな絵を好きなように描く、好きな科学を好きなように研究する、それこそがクリエーターのクリエーターたる所以ですよね。企業に行くことは人生としてローリスクですが、科学者としてはローリターンであることは厳然たる事実です。また「研究の自由」はわれわれ科学者にとって絶対的なものであると考えます。与えられたテーマをこなすだけの人はどんなに高尚なテーマをやっていても高級テクニシャンと同じです。私の知り合いの企業人でも意識の高い人達は、やはりこの自由がないことに最もストレスを感じるようですし、彼らが企業を辞めてアカデミックへ戻ってくる原因のほとんどが、この「研究の自由」のなさに因っています。

Q10. 他に企業の良いところ、悪いところを教えて下さい。
A10. 良いところはトップダウンであること。悪いところは価値観が異なること。

私はアメリカの大学で5年間ポスドクをした後、日本の企業の研究所でPIになりました。そのときの信じられない体験談をお話ししましょう。どこの企業でも同じだということではありませんが、日本の企業(私がいたところは外資でしたが、中身はいやというほど日本的でした)はどこでも似たようなものではないでしょうか?ちなみに、この話をすると多くの場合、企業にいる人はウンウンと頷き、大学にいる人は目を丸くします

●まず赴任初日に驚いたことと言えば・・・食堂での昼食が12時と決まっていること!12時20分くらいに行ったら、もうダメと言われて茫然としました。ちなみに工場と研究所が併設されていたため、工場のシフトに合わせて研究者の昼食の時間が決められているのだそうです。結局遠くのコンビニまで弁当を買いに行く羽目となりました。でもなんで誰も文句言わないのだろう?「11時40分くらいからゲルを流していたら、昼飯に間に合わないでしょう。研究者に12時ぴったりに飯を食えといっても、実験ってそんなものじゃないのですよ」と、所長に文句を言ったら、翌日すぐに改善されました。

●翌日の話。自由に昼食が取れることになってホッとしていると、事務が来て、午後3時からのミーティングのために予約していた会議室が使えないと言われました。曰く、午前10時と午後3時はお茶の時間と決まっており、その時間は研究者全員が手を休めてお茶をする習慣だとのことです。「お茶が飲みたきゃ、手が空いているときに個々に飲めばいいじゃん?」、と部下に聞いてみると、お茶の時間以外にお茶を飲んでいるとサボっていると思われるし、逆にお茶の時間に来ないとつきあいが悪いやつと思われるとのこと。すぐに所長に文句を言って、翌日からお茶の時間を廃止にしてもらいました。

(ちょっと一言)企業は基本的にトップダウンで動いているので、トップさえ動かすことができれば話は早いです。つまりトップが有能であれば、フットワークが軽くていいということです(もちろん、「逆」もまたしかり)。しかし大学ではこうはいきません。私も企業から大学へ移った当初は、あまりの融通の利かなさに唖然としたものです。大学は下から上まで巨大なヒエラルキー社会で、一番下の人間には権限がなく、一番上の人間には遠すぎてもの申すことが不可能であり、結局はいつまでも何も改善ができない仕組みになっているのです。

●驚くなかれ、企業では長時間働くことは「悪」と見なされます。残業代が発生するからです。実際に、昼間に仕事を真面目にせずにわざと夜遅くまでダラダラやって残業代を稼ぐ輩がいる、とのことです。だからと言って、研究って5時で終わり、ってもんじゃないでしょう?実験が佳境にさしかかっているときは、日曜だって一生懸命やらなきゃ結果は出ないのは当たり前ですよね。私の部署だけは時間は関係なしに研究をしていたために、常に周りから白い目で見られていました。守衛さんにはいつも早く帰れと言われました。中学校以来ですね、そんなこと言われたの。

(ちょっと一言)大学ではありえないですね。むしろ逆。アカデミックには、一生懸命研究に打ち込む姿は美徳だという健全な意識があります。つまり企業では、実験は「研究」ではなく「業務」なのです。業務は一定量をなるべく短時間にこなす方がいいに決まっています。しかし本当の研究にはここまでで終わり、という量的概念がありません。だから打ち込めば打ち込むほど夜は遅くなることは避けられないし、それがより多くの実績につながるのは当然でしょう。その「当たり前」が通用しない世界、それは想像以上に恐ろしいものですよ。

Q11. では、企業にはいいことはないのですか?
A11. 実は企業にもいいところはいっぱいあります。

保養施設が充実している、とかいう話は置いておいて、あくまで研究者として、という話に絞ります。私の経験談から言うと、企業では何よりグラントを心配しなくてもいいのが最大のメリットでしたね。企業の体質にもよると思いますが、私の場合、当時の所長のサポートがあったので、研究費は使いたいだけ使えたし、機器も充実していました。また個々の研究者の能力が比較的高い上に、持ち前の組織力があるので、それらをうまく使えば大学ではありえないパワーを引き出すことができました。例えば、当時作製していたノックアウトマウスの病理解析は、この企業の毒性病理部門に依頼したのですが、その組織力・技術力の凄さというのは、まさに戦慄ものでした。これは実際に見たものでないと想像は難しいと思いますが、大人数が並んで流れ作業のようにあっという間に次々にマウスを解剖し、芸術作品のように美しい病理標本にして、あっという間に手元に詳細な病理診断書が届く様は、大学では絶対に見られない光景です。このようなことは他にもいっぱいあります。ですから私はなるべく長く企業にいて、この素晴らしい環境の恩恵を享受しようと思っていたのです。いつか述べる予定ですが、科学者にとって注意すべきことは、自分の研究環境をベストに持って行くことであって、その地位ではありません。それを理解していないと、近道のようで結局は遠回りをすることになります。

Q12. では、なぜ会社を辞めたのですか?
A12. 価値観の違いに耐えられなかったため。

企業で最も恐ろしいことは、方針がコロコロ変わることです。私も初めの5年間はどんな研究をやってもいいと言われていたのですが、今から考えれば、純粋な基礎研究を行っているグループを企業がいつまでも維持できるわけがありません。次第に薬剤開発につながるような研究の時間を増やすように指導が入り始めました。今さら「話が違う」と言ってもどうしようもありません。言いようのない不安を抱えているときに、たまたま九大から現在のポジションをオファーされたのですが、まだ企業へ勤めて一年足らずだし、上述のような企業のうま味も捨てがたかったのもあって、初めは固辞していました。しかしそんなとき会社を辞める決心がついた出来事がありました。その頃、日本に帰ってきてから手がけた研究をまとめた論文がCELL誌に受理され、当の本人は大喜びなのは言うまでもありませんが、周りは全く冷ややかだったのです。嫉妬とかではなく、つまりそのことにまるで価値を認めていないのです。「CELLって何?」と言われたこともあるし、「そんな研究をしても一文の得にもならない、むしろ(医者の間ではほとんど効かないので有名な)抗癌剤を作って何億も売り上げている人の方がよっぽど偉い」という声も頻々と聞こえてきました。別に他人から賞賛されたいということではなく、価値観が違うというのは本当に怖いものだということを思い知ったのです。翌日、九大へ電話をかけたのは言うまでもありません。後日譚ですが、私のいた会社はその半年後に大リストラを断行し、私のいた部署は全員解雇となりました。あやうく泥の舟が沈む直前に公務員という木の舟に乗り移ったわけですね、結果的には。但し、今では公務員でもなくなり、大学も木の舟かどうかは怪しくなってきましたが・・・。

第2回まとめ

世の中にローリスク・ハイリターンという都合の良い商売は存在しません。企業へ進むということは、研究者にとってはローリスク・ローリターンの道を歩むということです。というより、それ以前にクリエーターが研究者の定義だとすれば、他人に押し付けられた研究を行うのは研究者のようで非なるものです。自分のオリジナリティを発揮したい人、人が引いた線路の上を歩くのが嫌いな人、ルーチンワークはまっぴらという人、は企業に行かない方が賢明でしょうね。『鉄は熱いうちに打て』、どうか冷めないうちに基礎研究の世界へ飛び込んで来て下さい。

さて次回から二回連続で医学部の場合の話をします。現実的に日本の大学医学部は理系トップクラスの頭脳を集めていますが、それを全て医療者というルーチンワーカーに仕立て上げている点、より問題の根が深そうです。この巨大な矛盾点をずばり解剖し、病理を調べ、治療します。乞うご期待。

第1章 立志飛翔編(学部学生に向けて)

その3 ー 研究者への道(医学系編):研究か臨床か(1)

前回に引き続き、科学者になるための道について、私の独断を述べようと思います。今回は医学系編です。医学部というのは、卒業後の道の選択肢が「医者になること」しかない特殊な学部です。つまり多分に職業訓練校のようなものです。しかし、昔はともあれ、現在の医学は生物学に基礎を置いたヒューマンライフサイエンスであり、メカニズムを理解して問題を解決しようとする新たなサイエンスに脱皮しつつあると言われています。しかしそのメカニズムを解明しようとする人材を養成するための教育改革が、全くなされていないという戦慄の事実を知っていますか?むしろ現状はそのような方向からは逆行しつつあるのです。例えば100名の医学部卒業者のうち、卒後すぐに研究者になるのは1~2名いれば良い方で、研修必修化が始まってからは0に等しいのではないでしょうか?現在の医学研究が10年、20年後の医療の基盤を構築するのは必然なのに、それに打ち込む人材が卒業生全体の1%にも満たないのはどういうわけでしょう?それは現在の医学教育に大きな問題があるからに他なりません。皆「研究か臨床か」で悩み、熟考し、決断するのが本来の姿なのに、あなたは何も考えることなく「臨床医」への道を選択していませんか?

Q13. 臨床と研究のどちらが良いのですか?
A13. どちらも素晴らしい、しかし一つしか選べない。

私は半年弱の臨床経験しかありませんが、物事の本質を見極めるなら、それでも十分な時間でしょう。その前提に立って言わせていただければ、結論は「どちらも一生を賭けるに値する素晴らしい職業である」けれども、「どちらか一方しか選ぶことができない」ということです。そして人それぞれに適性があって、研究に向いている人、臨床医療に向いている人がいます。それぞれの良さ(悪さ)とは一体何でしょうか?あなたの頭の中で、このポイントがはっきりしていないので、将来の選択を思い悩む(又は、全く考えることなしに大勢に従って臨床へ行ってしまう)のです。あたかもハーメルンの笛につられて次々と河に飛び込むネズミの群れを見ているようです。しかし、選択肢が二つあるということを教えてくれる教官がほとんどいないのが、日本の医学部の現状ですから、あなただけに非があるのではありません。むしろ、日本中の医学研究者がいかに未来の医学に対する投資を疎かにしているか、その怠慢さが責められるべきであると考えます。責任論はさておき、この点に関するいろいろな質問への私なりの答えを以下に挙げてみます。

Q14. 臨床医とはどういう商売ですか?
A14. 臨床の本質は奉仕です。

臨床の最も大切な社会的使命は、言うまでもなく病気に苦しむ人々を救うことにあります。残念ながら、臨床医に創造性はあまり必要ではありません。下手な創造力はかえって危険ですらあります。例えば、普通には認められていないような薬を投与したりする内科医や、自分の思い付きで術式を変えてみたりしたがる外科医には、君達も診て欲しくないでしょう?このようなことは一種の人体実験であって、通常では行ってはならないものです。実際に臨床の現場では、かなりの事項がマニュアル化されています。高い知能を持った人が、創造性の許されない職場にいることは、大変辛いことです。それでは、何が彼らを突き動かしているのでしょうか?

私には、臨床医の大多数にとって報酬とか名誉とかは、最も大切なファクターではないように感じられます。医者は皆、財前五郎だと思ったら大間違いです。少なくとも私の知っているお医者さんは里見先生タイプが多いような気がします。最も大切なことは、自分で自分の人生に満足できるかどうか、その一点にかかっているのではないでしょうか?臨床医にとって最大の喜びは、自分の患者が元気になって、明るい笑顔を取り戻すことであることは、疑いないことであると感じます。それは患者やその家族から感謝されたい、といった俗な精神ではありません。自分が人の役に立ったという満足感なのです。そして、それは奉仕の精神と共通するものがある(というか、ズバリそのもの)と言えます。医療とは人(人類)のための奉仕であるということは、ヒポクラテスの時代から変わらぬ真理です。

Q15. では研究者は臨床医とどのように違うのですか?
A15. 研究の本質は創造です。

今まで述べてきたことですが、研究においては、他人と同じことをしても全く評価されません。そこには自分なりのテーマ、自分なりの発見が必要で、創造性が最も重要なファクターになります。知能の高い人達にとっては、創造性を発揮して新しい発見をするということは、報酬・名誉・権力といった俗界を超越した、もの凄い喜びがあります。暗室で一人ガッツポーズをしたことも数知れずです(涙したことはもっとありますが・・・)。思いがけず大発見をした日は、朝まで興奮で寝られないこともありますし、人によっては興奮のあまり、街を徘徊してしまうこともあるようです。正直言って、それが人の役に立とうが立つまいが、そんなことはどうでもいいのです。真理の解明、という最も知的好奇心を刺激する美酒に酔いたい、というのが本心です。サイエンスというのは本来そういうもので、「○○病の治療に役立つから」「○○症の診断に応用できそうだから」という近視眼的な目的のためにやっているのではないのです。しかし、結果として、それが世のため人のためになればそれでいい、と私は考えていますし、そのくらいの気持ちでなければ大きな社会的貢献につながるような本質的な発見はできないだろうと感じています。そして、基礎研究の社会的な貢献というものは、20~30年後に初めてわかるのであって、現在の我が国のように目先の実利だけを求めたり、判定したりする科学政策は、全く的が外れていて、本当に行く末が心配になります。

Q16. 臨床医は現状に満足しているのですか?
A16. 臨床医の苦しみはベクトルのズレにあります。

大学で臨床を行っている医師は、非常に多忙です。何故なら、彼らには「教育・研究・診療」という3つの業務をこなさなければならないからです。多くの場合、時間(現実)の上では診療>>研究>教育であるけれども、本人の意識(情熱)では、研究>診療>>教育の順番であるようです。この現実と情熱の解離が大学病院医師を苦しめ、ダメにしています。どちらにしろ、君達の教育は一番下に位置しているのは事実です。本来の大学医学部の使命は、教育が最も上位にこなければなりませんが、それも致し方ありません。というのも、現在の大学病院医師の評価システムに、教育というものはほとんど重視されないからです。逆に、研究が評価の大きなファクターとなっています。しかし上に述べたように臨床の最も大切な社会的使命は、言うまでもなく病気の人間を救うことにあり、現実的にそれを無視することができないので、上記のような現実と情熱の解離が発生するのです。言い換えれば、社会的使命(診療)と個人レベルの興味(研究)のベクトルの方向がズレているのです。

Q17. 臨床医にとって研究とはどんなものですか?
A17. 臨床医も本当は研究がしたいのです。

通常、真面目に診療に取り組んでいる医師が研究に割くことのできる時間は、本当に少ないようです。週に1~2日あれば良い方です(それ以上している人は臨床医という名の基礎研究者です)。また、実験をしているときに自分の受け持ちの患者が急変すれば、その実験を放棄しなければならないこともあるでしょう。そんな限定された時間でできる研究には、やはり限界があります。どうしても科学的な見地からはレベルの低い、他人の研究の焼き直し的なものになってしまうのは避けられません。私達はそういう研究を称して、「銅鉄実験」と嗤っています。銅でこうだったから、次は鉄でやってみましょう、的なもので、このような研究は単に論文のための研究でしかありません。そしてその論文は本人の業績という以外の何の価値も持たないものが大部分です。臨床の大学院生の学位論文審査をしていると、そのような類の論文のあまりの多さに驚きます。

残念ながら、多くの臨床研究というのはアマチュアの世界で、プロ研究者の研究とは質が異なります。強いて言えば草野球と大リーグの違いです。医学生の多くは「大リーグで自分の力を試してみたい」と思っているくせに、結局は何も考えずに「草野球が好きなサラリーマン」の道を選んでしまっているのです。ですが多くの医学生はそのことに気が付きません。週一回の練習で大リーガーになれると思っている人は皆無なのに、週一回の研究で世界的な研究などできるはずがない、ということになぜ多くの医学生は気が付かないのでしょうか?

前々章でルーチンワーカーとクリエーターという職業分類をしましたが、臨床医というのは、敢えて極言すれば、高度な知識と技術を持ったルーチンワーカーなのです。しかし本来は頭の良い人の集団ですから、やはり自分の実力を試してみたくなるときがやってきます。ルーチンワークから脱却してクリエイティブな仕事にチャレンジしたくなるのです。私の知っている限りでは、真の研究をしてみたい、という強い衝動に駆られるときが、臨床医になって5、6年すると起こるようです。そこで基礎研究者に転向する人もごく少数ながら存在しますが、大部分の人はそのようなフラストレーションを抱えながら、診療と研究の間で悩み、苦しんで、諦めていく、という経過を辿るようです。私の知り合いの臨床医には、本当に頭が良く、人間的にも誠実で、立派な医師が数多くいます。彼らは一様に「あと10歳若かったら、自分も基礎研究へ転向したかも知れない」と言います。そして全ての時間を研究に打ち込むことのできる環境を羨ましがります。彼らのような優秀な人達が大挙して基礎研究に押し寄せてきたら、私は困りますが・・・幸い現在のところ、それはないようです。

Q18. 研究の良いところを教えて下さい。
A18. 評価が単純明快なのが研究のいいところです。

基礎研究者は好きな時間に来て、好きなだけ研究をして、好きな時間に帰ります。大きな声では言えませんが、一日3時間しか働かなくても、人が唸るような業績をあげれば誰も文句を言いません。「結果が全て」のこの世界のルールは単純明快で、臨床のようなベクトルのずれはありません。また最近ではインパクト・ファクターという論文の引用率を定量化したものがあって、論文の重要性が数字で表せるようになってきました。インパクト・ファクターで研究の質を推し量ることについては賛否両論がありますが、それに関する議論はまた別の章で取り上げるつもりです。もちろん現実的にはインパクト・ファクターのみで評価が決定するわけではありませんが、それでも臨床に比べれば圧倒的にフェアな世界であると言うことができるでしょう。臨床医は多くのパラメーターの中に生きているので、どのパラメーターを用いて評価するかがかなり恣意的になってきます。診療技術などはなかなか定量化できませんし、ましてや人柄や政治力といったものまで絡んできますから、「あの医者は研究ばかりしているが、手術の腕は全くダメだ」、「あいつは手は器用だが、まったく研究論文がない」という正反対の議論が同一の場で起こることに全く違和感のない世界、それが臨床の現場です。評価の基準が不明確であることは、正当な努力や実績が評価されなかったり、中傷合戦に発展したりして、「白い巨塔」の世界を超えるような不健全性が醸成されることも少なくないようです。そういった「いやらしさ」は研究にはあまりありません。

Q19. 研究と臨床の違いを一言で言うと?
A19. 絵描きと似顔絵描きの違い。

研究の世界において、評価が単純明快であるということは、必ずしもいいことだけではありません。まず誤魔化しがききません。努力しても報われないことだってあります。学歴や過去の実績が何の役にも立ちません。つまり実力が全ての厳しい世界である、と言っても過言ではありません。その点ではプロスポーツや芸術家と良く似ています。いくらPL学園出身だろうと芸大を卒業していようと、そんなことはプロには関係ありません。例えて言えば、研究者は一見わけのわからない抽象画を描いている絵描きと一緒です。そこに模倣はありません。独自の創造性とその内容が評価される世界です。絵が売れなければ食うにも困ります。しかし一発当てれば後生にまで残る作品と名声が得られます。それに対して臨床医は似顔絵描きです。創造力に富んだ絵は困ります(街角でピカソの泣く女のような似顔絵を描かれから困るでしょう?)。模倣が大切です。しかし確実に収入は得られます。でも、似顔絵描きだって、心中は自分のオリジナリティーを大切にした本当の絵を描きたいのではないでしょうか。皆さん、短い、一度きりの人生です。似顔絵なんか描いてて良いのですか?本物の絵を描いてみませんか?

Q20. 進路を決める上でしてはいけないことを教えて下さい。
A20. 二兎を追ってはいけません。

前回述べたように、臨床も基礎研究もどちらも打ち込めば素晴らしい世界です。しかし、どちらかに打ち込まなければ、中途半端な人生で終わってしまいます。私個人はもう一度生まれ変わったら、今度は臨床医になってみたいと思っています。一人でも多くの患者さんに、心身の安らぎを与えてあげたい、そういう人生も悪くないな、と思います。ですが、残念ながら人生は一度きりです。自分の可能性を試してみたい、自分の知的好奇心の赴くままに生きてみたい、という我が儘な心を抑えることができません。科学者とは本来我が儘なものです。どちらに賭けるかは皆さん次第ですが、両方に賭けると必ず後悔します

第3回まとめ

現在の大部分の医学生は、何も考えることなく卒後臨床への道へ進むのですが、実は道は二本あるのです。そして、それぞれに適性があって、一部の人にはいずれ後悔する日がやってきます。そのような悲劇を防ぐためには、学生のうちから二つの道について十分な情報を収集し、理解した上で進路を決定することが何より必要です。臨床にも研究にも良い点、悪い点があり、それを知った上で個人の適性を鑑みながら、方向性を決定すべきです。自分で考えた挙げ句に選択した道ならば、挫折しても後悔することは少ないはずです。現在のように全員が臨床へ進む体制は日本の医学の発展を阻害し、将来に禍根を残す危険が高いのではないでしょうか。次回も医学部編の続きです。君達は何を考えて行動すべきか、バッチリ教えちゃいます。乞うご期待。

第1章 立志飛翔編(学部学生に向けて)

その4 ー 研究者への道(医学系編):基礎か臨床か(2)

医学部の学生が研究志向ではないことに私は大いなる不安を覚えています。それも的確な情報が与えられているならまだしも、情報が全く不十分であるか、またはいい加減で間違った情報しか与えられていないという現状に一石を投じたい、というのがこの連載を引き受けた最大のモチベーションでした。そのようなわけでどうしてもこの項には力が入らざるを得ません。前回で述べきらない主張を今回も続けたいと思います。

若いうちは、なかなか人生の目標を明確にし、それに沿った生き方を選択できないのも無理はないと思います。多くの人が目標を求めて「自分探しの旅」と称して流浪する時代でもあります。しかしそのような悠長なことは、20歳代前半までにしませんか?つまり24、5歳までには自分の一生を賭けるに値する商売を決めよ、ということです。医学部ならば卒業までには進路を決定しなくてはいけません。何故でしょうか?残された時間は短いからです。私は定年まであと20年以上あるが、それでもその時間はあっと言う間に経ってしまうだろうと感じています。なぜなら、今までの20年間の研究者人生があっと言う間に経ってしまったから。もう既に折り返し地点に来てしまったという焦りは君達にはわからないでしょう。でも想像して下さい。今、私が2~3年研究を休んで海外旅行に行っていいよ、と言われたときに何と答えるかを。

Q21. 臨床を2~3年してから基礎研究がしたいのですが?
A21. 気持ちはよくわかりますが、それは最低の選択です。

折角医学部に入って、6年も勉強してやっと医師免許を手に入れたのに、全く臨床経験をせずに基礎研究に打ち込んでいいものかどうか。自分にとってまだ臨床がいいのか研究がいいのか迷いがある。とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究の世界に行くかどうか考えてみたい。と、相談に来る人が毎年必ず数人います。気持ちはよくわかります。実は私もそのようなことを言っていた一人ですから(下記参照)。しかし、結果から申せば、それは最も愚かな選択なのです。それはなぜでしょうか?

私の経験から話しましょう。私は医学部4年生のときに、当時東京医科歯科大学の教授だった笹月健彦先生(現・国際医療センター総長)の講義に感銘を受け、夏休みや春休みを利用して笹月研究室に出入りし、細胞免疫学の実験をさせていただきました。この体験を通じて、研究者の道を歩もうと心に決めたわけですが、実は私も「2~4年間臨床をしてから、基礎研究に行こう」と考えていました。そんなとき笹月先生が九大に移られることを知って大変ショックを受け、慌てて東京の別の大学の免疫学研究室を探しました(実はその頃、九州は外国だと思っていた私には、笹月先生を追って九大について行くというオプションは夢にも思なかったのですが、今では東京から学生が来ないと言って怒っています)。当時、東大には多田富雄先生という免疫学の大御所がいて、一度面接していただいたことがあります。その時に、「2~4年臨床をしてから基礎に行きたい」とのたまわったところ、「こんなにサイエンスの世界が革新的に進歩しているのに、2年も無駄にしてどうするんだ」と叱られました。今から20年前の話です。もちろん現在の方が20年前と比較にならないくらい、もの凄いスピードでサイエンスは進歩しているのです。

科学者に出身学部の壁はありません。いったん科学者を目指した瞬間から、君達のライバルは医学部出身者だけではなく、理・薬・農・工学部出身者との競争になります。しかし彼らの卒業は22歳で、大学4年生で研究室に配属されるところも多いので、実質21歳で研究の道に入ることになります。それに対して医学部教育は6年間あり、どんなに早くとも卒業は24歳です。君達が卒後すぐに研究を始めるとしても、すでに3年のハンデがあるのです。そのハンデは決して挽回不可能なものではありませんが、かなり大きいことは事実です。なのに「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか」なんて迷っているのは、全く馬鹿げています。5年も遅れてしまったら、もう取り返しがつきません。だって君が大学院に入学するときに、相手はもう大学院を卒業してポスドクをしているのですよ。

私の大学院のときにS君という理学部出身の同級生がいました。当時、私達の直属の上司の先生は中内啓光先生(現・東大医科研教授)でしたが、中内先生曰く、「中山君、既に3年のハンデがあるからすぐに追い付けとは言わないが、5年後にS君に追いついていなければ科学者としてはダメだよ」と言われました。ちなみにS君は大学院生のときに独力でNature誌に論文を出した花形学生でした。つまりそのS君が8年かけていくところを5年で行けというわけです。それだけでも厳しいのに、さらに2~3年も遊んでいたら、と思うと今でもぞっとします。多田先生に叱られたお陰で、最低の選択をせずにすみました

Q22. なぜとりあえず2~3年してから、という人が多いのですか?
A22. 早めに進路について真剣に考えてこなかったから。

では、なぜ「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究に行きたい」と言う人が多いのでしょうか?これにはいくつかの理由が考えられます。例えば、折角医師免許を取ったのだから医者をしてみたい、将来の収入が不安なので手に職を付けておきたい、親の希望、等々。しかし真剣に人生を考えている人ならば、これらの理由が、上述した「5年の遅れ」を正当化するだけの説得力を持っていないことに気付く筈です。

経験として医者をしてみたいという気持ちはわかりますが、それは君達がたまたま医師免許を持っているだけのことであって、その他にも経験としてやってみたいことはいくらでもあるはずです。例えば絵描きになってみたい、モデルになってみたい、八百屋になってみたい・・・きりがありません。自動車免許を持っているからといって、タクシードライバーになってみたいと思いますか(註:タクシードライバーには2種免許が必要)。将来の収入が不安というのも、チャレンジする前から保険を掛けておこうとするのはよくありません。保険を掛けて本業を疎かにするのは本末転倒です。親の希望・・・誰のための人生ですか?君の人生の岐路の中でも最も大きい決断を迫られているときくらい、自分の意志で決めなさい。

「2~3年臨床をしてから基礎に行きたい」という学生さんから、私が感じる最も大きい要素は、「今すぐ結論を出すのではなく、2~3年よく考えてから」といった結論を先送りしたいという甘えです。既に6年間も教育に時間をかけてきて、他の学部出身者はもうプロとしての第一歩を歩みだしているときに、「もう少し考えてから」というその悠長さは、滑稽ですらあります。では、なぜすぐに結論が出せないのでしょうか。それは医学教育の6年間の間に真剣に自分の将来について考えてこなかったからです。ではどうしたらいいのでしょうか。なるべく低学年のうちから、「自分は研究と臨床とどちらに進むべきか」という意識を持つことです。常々私が申しているように、医学部を卒業したら道は大きく二つに分かれているのです。「医学者」の道と「医療者」の道と。そのことに思いを寄せずに6年間過ごしてきてしまったために、いきなり選択を迫られて、「また後で」とモラトリアムになってしまっているのです。まあ医学部のほとんどの人が、道が二つに分かれていることさえ認識できずに卒業していく現状から見れば、まだ二つの道が見えている人は賢明な部類なのでしょう。しかしその他大勢の人も5~10年経ってから、実は卒業時に道が二本あったことに気が付いているのです。そして意外と多くの人が、「研究の道に進めば良かった」と後悔しているのです。実際、その思いが強くて30歳近くになって研究を志す人も中にはいますが、多くの場合は残念ながら手遅れと言わざるを得ません。

Q23. 研修医の経験は研究にも役立ちますか?
A23. 全く役に立ちません。

研修医というのは、朝一番に行って、一通り患者さんの回診をしたあと、種々の伝票を書き、検査結果やカルテの整理、検査や手術への立ち会い、採血や点滴、アルバイト、カンファレンス発表の準備、等々夜遅くまで、時に食事をする暇もないほど忙しく働かなければなりません。全く初めての体験ばかりで、物事をじっくり考える暇もなく働き、「自分は一人の医師として頑張って働いている」という意識に充実感を覚えるかも知れません。でも、これは頭を空っぽにして働いている人が陥りやすい一種の自己陶酔であって、現実的には研修医は雑用係でしかありません。臨床医としての真の喜びは、知識と理論に裏付けされた診断及び治療方針に、自分の経験から来る匙加減を加えて、患者の自然治癒を助けることにあります。別に伝票を書いたり、採血をすること自体が喜びではないことは自明です。しかしそのような一人前の医師になるためには、研修医の後もずっと臨床医としての研鑽を積まねばなりません。

雑用係をするために、2~3年の貴重な時間を潰すことは、全く愚かなことです。研修医とはテニスプレイヤーに例えれば、球拾いのようなものです。誰でも球拾いから始めることは仕方のないことですが、それは将来的にテニスの楽しさを満喫するためのものであって、球拾い自体が楽しいわけではありません。君達が野球選手を目指しているのに、「2~3年テニスもしてみたい」と言ってテニスコートで球拾いをしているようなものです。その間にも君達のライバルは野球の練習をしてどんどん野球がうまくなっていきます。そんな状況でも君達は球拾いをしたいと思いますか?

私達から見れば、2~3年研修医をすることは、2~3年海外旅行へ行って遊んでいるのと全く同じです。しかしやっかいなことは、海外旅行をして遊んでいるのに比べて、研修医をしていると何となく社会的に”働いている”と認知されてしまうことで、本人もそのように思い込んでしまいます。しかしながら上に述べた理由により、プロの研究者を目指す人間としては、遊んでいるのと何ら変わりはないのです。

Q24. 実際に研修医をしたらどうなるかを教えて下さい。
A24. 甘やかされて闘争心を失ってしまい、二度と帰ってこない。

私の経験から言って、「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか考えてみたい」と言って研修医になって、実際に基礎に帰ってきた人は皆無です。それは何故でしょうか?甘やかされてしまって闘争心を失ってしまうからです。研究というのは世界を相手にした闘いです。それはやりがいがあり、一生を賭けるに値するだけのものがあります。しかしその世界に飛び込むためには、ある程度の勇気が必要なことも事実です。「えいっ」と決めてしまう若さが大切で、迷った挙げ句に一度猶予期間をおいてしまうと、もうその勇気が出てこなくなります。

さきほど、2~3年研修医をすることは、2~3年海外旅行へ行って遊んでいるのと全く同じと言いましたが、むしろ遊んでいるよりたちが悪いのです。研修医はその実態は雑用係以外の何者でもありませんが、社会は一応一人前の医者として扱ってくれます。看護婦さんや患者さんからは「先生」とチヤホヤされて、何となく偉くなったような気がします。しかしその反面では、それが単に外見的なものに過ぎないこともよく自覚しているのです。そのような見せかけのプライドの生活を2~3年もすると、実の世界の人達に対して恐れを抱くようになり、そのような虚のない世界に入ることが億劫になってきます。そしてそのような人が再び帰ってくることはまずないのです。

Q25. 逆に研究者から臨床医に転向することは可能でしょうか。
A25. それはかなり現実的な選択肢である。

臨床と一口に言ってもいろいろな人がおり、それぞれに違う目標を持っています。臨床はそれが許される世界で、個々の目標により自分の生き様を選べます。一度社会人として働いていた人、多浪して大学へ入ってきた人、病気で長く休学してしまった人、等でも受け入れてくれます。基礎研究を目指して挫折した人でも、臨床医として再びチャレンジする人はいます。つまり、どうしても迷いがあるとか、結論を先送りにしなければならないのならば「とりあえず2~3年研修医をしてから、基礎研究にいくかどうか考えてみたい」のではなくて、「とりあえず2~3年基礎研究をしてから、臨床にいくかどうか考えてみたい」というオプションの方が現実的です。2~3年の基礎研究は、その後の臨床研究に役立つことがきっとありますが、2~3年の研修医体験は研究には何の役にも立ちません。

Q26. 研修必修化が始まってアルバイトができないのでは?
A26. アルバイトのために人生を左右するのは本末転倒である。

今、私達にとっても、君達にとっても最大の問題は研修必修化の問題でしょう。つまり卒後医師免許は取れても、保険医は2年間の研修を受けなければ取れないという制度で、保険医にならないと実質的にはアルバイトも難しいという状況が生じています。健診程度ならばできるそうですが(未確認情報)。研修も済んでから研究を始めるとなると、どんなに早くとも26歳になってしまいます。では、どうしたら良いでしょうか?

最終的には科学者になるという前提で、まず研修をするメリットとデメリットを考えてみましょう。メリットは大学院生の間にアルバイトをして学資の足しにできるという点です。それ以外にはありません。上記のように保険医であるということは、研究には何の役にも立ちません。デメリットは時間です。2年という直接的な歳月だけでなく、バイトに行くための時間も加わります。週一回バイトに行くとすると年間約50日、大学院4年間で約200日の時間を無駄にします。

私の提案は、医師免許は取った上で、研修はやらずに研究をする、というが最も効率的な方法だと思います。バイトは健診程度で十分ではないですか?理学部出身の学生は奨学金だけでやりくりしているのだから、それに比べればマッチベターだと思いませんか?また医師免許さえ取っておけば、研修はいつでもできます。もし不幸にして研究者として挫折し臨床医に転向しなければならなくなったとき、初めて研修を受ければよろしい。仮に最終的に臨床医になるにしても、卒業→研修(2年)→研究(4年)→臨床という道(計6年)と、卒業→研究(4年)→研修(2年)→臨床という道(計6年)には何の違いもない。しかし最終的に研究者となるか臨床医となるかがわからない段階であれば、研修は後回しにした方が、研究者になった場合には研修をしないというオプションが増えて有利です。だから少なくとも当面研究者を目指すならば、研修をせずに卒後すぐに研究の世界へ入るべきです。

Q27. では医学部に入ることは研究者にとってメリットはないのでしょうか?
A27. 非常に大きなメリットがある。

研究者にとって医学教育を受けることのメリットは大きく分けて二つあります。まず一つめは、研究者というものは基本的にハイリスク・ハイリターンの世界ですから、「失敗したらどうしよう」という不安からどんな人も逃れることはできません。しかし医師免許を持っているということは、その不安を和らげてくれる魔法の薬です。つまり綱渡りの際に、下に安全ネットが張ってあるようなものです。失敗を恐れずにどんどん前へ進むことができるのは、実は背水の陣を引いた人ではなくて、安全ネットの上を進む人達なのです。リスクを取らなければリターンも得られないこのクリエイティブな世界において、リスキーな選択でも平気ですることができる人は、科学者として成功する要素を持っています。

またもう一つのメリットはもっと本質的で大切なものです。医学部で受ける教育というのは並大抵のものではありません。まず解剖学(=構造)や生理学(=機能)を習い、その異常としての病理学や臨床医学を習います。つまり人間という一つの生物に関して、構造・機能について正常・異常をありとあらゆる角度から徹底的にたたき込まれます。その結果、人間という生物に対して「個体レベルでの理解」が感覚的に芽生えます。これは他学部の人には絶対にない感覚で、それを独学で学ぶことはまず不可能です。知識の量が膨大なだけでなく、実際に解剖したり、患者を見なければわかならいことばかりだからです。2年の回り道ですが、この「個体レベルの理解」はライフサイエンスを行っていく上で絶大な力を発揮します。私は以前医学部に行ったことを非常に後悔した時期もありましたが、今ではそんなことは全く思いません。

第4回まとめ

医学部を出て研究をすることは、時間のハンデがあるにも関わらず、そのメリットは非常に大きいのです。つまり研究は基本的にハイリスク・ハイリターンの世界なのに、医師免許を持っているだけでローリスク・ハイリターンの世界に変化します。しかし現在は研修必修化が導入されたせいで実質8年教育になり、ますます若い医学生が研究の道を志すことを阻害しています。私の提案は、6年教育を受けて医師免許を取ったらすぐに研究を始めることです。2年の研修は(もしそれが必要になったら)人生のうちいつでも受けることができます。しかし、きっとそんな必要はありませんよ、大丈夫。安心してめくるめく研究の世界へお越し下さい。

第2章 青春怒濤編(大学院学生に向けて)

その1 ー 研究室における諸問題

前に述べたように研究者として成功するためには大学院時代をどのように過ごすかが最も大きなファクターであることは疑いありません。一方で大学院生時代ほど悩みと不安に満ちた時代もないでしょう。どんな職業でもそうですが、見習い時期の最も大きな不安は、先が見えないことです。自分にはどのくらい実力があるのか、果たしてこの環境が自分に最もふさわしいものなのか、将来自分はどうなるのか。大学院時代というのは離陸前の飛行機のようなものです。そこで十分加速しておかないと離陸できないか、離陸しても失速してしまいます。最終的にどのくらいの高度へ到達できるかが大切なのですよ。慌てて離陸することはありません。十分速度をつけて、さあテイクオフ!

Q28. 研究の面白さがわからないのですが。
A28. 研究過程を楽しむ術を覚えれば大丈夫。

どんな研究でもうまくいけばそれなりに楽しいし、素晴らしいテーマでも失敗続きならば面白いとはなかなか感じられないでしょう。ましてや素晴らしい研究がどんどんうまくいったら、研究生活はバラ色ですね。しかしながら、世の中そううまくはいきません。そんな時でも研究が面白いと感じられるためには、研究過程における論理性を大切にすることです。研究は一つのストーリーで、全く関連のないデータの集まりではありません。初めからストーリーが予想されていて、その通りの結果になる実験もありますが、大体は大雑把な仮説とその根拠になるプレリミナリーなデータから想像を逞しくしてストーリーを積み木のように組み立てていきます。このときに論理の基盤や実験結果の信頼性があやふやだと、不安定な土台の上に積み木を積んでいる如く、いずれ崩壊してしまいそうでいつも不安です。特に大学院生時代は技術的にも自分に自信が持てないため、どんな結果が出てもなかなかそれを信じることができないものです。この不安と自信のなさが研究の面白さを失わせる大きな要因です。

ですから、この不安を解消すれば研究はうんと楽しくなります。手技的に習熟するのは当然ですが、手技以前にどのくらいミスやブレをなくすことができるかを徹底的に考えるも大切で、そこには抜群の想像力が要求されます。私はチューブの並べ方やチップの使う順番まで理屈を持って決めていました。人間には誰でも必ずミスがありますが、100回に1回のミスを1000回に1回に減らす工夫をするのです。仮に予想外の結果が出ても、「もしかしたら試薬の入れ忘れ、入れ間違いかも知れない」なんてことを考えたくないでしょう?しかしそのような手技的な問題についてはまた別の機会に述べることにしますが、いくつかは昔の実験医学(1997年)に掲載しています(「迅速Mini-prep法」、「ゲルの写真にこだわる」、「平底チューブを使いこなそう」等)ので参考にして下さい。個々の手技が大切なのではなく、そこに流れている思想を読み取って欲しいと思います。

とにかく基礎検討に次ぐ基礎検討をやること。最近の学生は、全てがキット化されている弊害からか、基礎検討をほとんどやっていませんよね。私の大学院生時代のノートを見てみると、かなりの部分が基礎検討で埋められています。基礎検討をすることで最適の条件が見つかり、実験手技も高まって安定していく。この過程が楽しいと感じるようになったら、君は科学者として一生やっていけます。種々の基礎検討をやったら、本番の実験は2~3回やればいいのです。遠回りなようで、実はこれが実験の成功への近道であるばかりか、君達の研究能力の大きな基盤財産になり、将来にわたってゆるぎない自信となるのは間違いありません。

Q29. 実験ノートはどのようにつけたらよいですか。
A29. 実験ノートは論文と同じように書きましょう。

研究を面白くするもう一つの秘訣は実験ノートです。何度も述べましたが、私は初めからほとんど他人から教わることなく研究をしてきたので、何事も自己流が多いのですが、実験ノートの付け方も自分なりにいろいろと工夫してきました。研究を楽しむためには、要所要所で自己完結することが重要で、論文完成まで数年間もまとめがないと常にフレッシュな気持ちで研究に取り組めません。そこでどうするか?と思って考えたのが、実験ノートを「プチ論文」にすることです。必要な構成は、1)タイトル、2)日付、3)実験目的、4)材料・方法、5)実際に行った手技、6)結果、7)考察、です。

実際に行った手技はどんな小さなことでも記載します。何をどのくらいの量入れたか、どのくらい時間をかけたかを、毎回毎回具体的に記載します。プロトコールと実験ノートは別のものですが、これがわかっていない人が多いですね。汚いプロトコールのコピーにサインペンで書き込みをしてあるだけでノートを付けていない、という学生にしばしば出会いますが、きちんとした初期教育を受けていないんだなーと思ってしまいます。例えば、プロトコールで「30分以上インキュベーション」と書いてあるとします。あるときは30分で、次は45分で、さらにその次はオーバーナイトで行うかも知れません。それが結果に影響を与えることは十分に考えられますが、記録がなければ、後で何もわからなくなってしまいます。また、量についても適当に最終濃度だけ書いてあれば良い、というものではありません。20マイクロリットルの系と1ミリリットルの系では、同じ組成でも反応の進み方はかなり違うことは、私は経験を通じて知っています(恐らくチューブの熱伝導率や対流の影響によるのでしょうが)。どんな小さな日常的な実験、例えばPCRフラグメントの発現ベクターへのサブクローニング、でも立派な一つの実験です。メモ的なサブノートを作ることは構いませんが、あくまでもメインノートが大切だという意識がないと、そのうち時間がなくてサブノートだけになってしまうという危険があります。メインノートをきちんと付けることはある程度の時間を要しますが、それができないひとは高級テクニシャンですね。

実験ノートをプチ論文化すると、日々の実験が楽しくなってきます。目的を明らかにして、しっかりと結果を記載し、それに対していろいろと考察をしてみる・・・これは科学的思考の訓練になるだけでなく、実際に論文を執筆するときにとても役に立つはずです。それ以上に大切なことは、その詳細な記録が君の将来の財産になるでしょう。きちんとしたノートがあれば、似たような実験をするときにすぐに再現することができます。

残念なことに、私は今まで多くの学生に実験ノートをしっかり付けるように口うるさく指導してきましたが、結果的にきちんとノートをつけたと思われる人はたったの3人しかいません。そしてその3人と他の人との研究能力には圧倒的な差があります。ノートを付けたから能力が高いのか、能力が高かったからノートもきちんとしているのか、その因果関係はよくわかりません(恐らく両方)。君達も今日からしっかりノートを付けることを自分に義務づけてみましょう。それが研究を楽しむコツの一つなのでもあり、研究能力の向上にもつながるのですから。

Q30. 研究テーマは1つに絞るべきですか?
A30. 松竹梅の3テーマを持つべし。

研究はいつもうまくいくとは限りません。というか、うまくいかないことがほとんどです。それでも石にかじりついても根性で困難に立ち向かうべきでしょうか?否、そんなことしていたら精神が持ちませんよ。辛くなって次第に研究が嫌いになり、さらには人生が嫌になってしまうのがオチです。ですからテーマは複数持ちましょう。私は大学院生時代には5~6テーマを常にやっていましたが、これはちょっと多すぎです。3つくらいがちょうどいいと思います。困難だけれどもうまくいけば大きな仕事になるテーマ(松)、確実に論文になることが狙えるテーマ(梅)、この中間的な性質を持つテーマ(竹)を持つことをお勧めします。どれかがうまくいく筈です。ここで大切なことは、うまくいっていないテーマも問題解決のための努力を怠らないこと。うまくいっている実験だけに没頭して他のテーマをやらないのではなく、部分的にうまくいっている事実をテコにして、うまくいっていない実験にチャレンジする精神的余裕を持つことが大切なのです。

但し、この原則はあくまで平時の話。次のような場合には、辛かろうが10円ハゲができようが、1つのテーマだけに絞って根性出すべきです。まず、幸運なことに世紀の大発見をしたとき。困難があろうと研究に没頭するのにそれほど苦痛はないはずです。折角大発見の途中にあるのに、集中しきれずに他のことをやって、結果的に本質的な研究が遅れる人がいます。本人はどちらも大切と思っているのですが、世の中は0と1だけの世界ではなく、1重要なことと100重要なことがあるのですよ。それは指導者がしっかりした指針を与えなくてはなりませんね。第二に、不幸にも現在行っている研究に明らかな競争相手が存在する場合。残念ながらオリジナリティーはプライオリティーと表裏一体ですから、二番手になると論文を出すことさえ困難になってきます。最後にリバイスのための実験。特に期限が区切られているのならなおさらです。このようなときは非常事態と割り切って、根性出して下さい。

Q31. ボスが論文をすぐに見てくれない。
A31. すぐに見てもらう努力を「君が」する。

私が今までいたラボでよく見た光景、それはボスの机に積まれた多数の論文の山、です。山の下の方には、もう1年以上も放置された論文もありました。君もボスがなかなか論文を見てくれなくてイライラした経験はありませんか?

そこで私が研究者として成功するための素晴らしいポリシーを教えてあげましょう(笑)。「研究は全てファーストオーサー(自分)の責任」と考えること、です。私はずっとそのポリシーでやってきました。それによって救われたことも数多くあります。ボスが・・・してくれないから、なんて言い訳になりません。家庭の都合で、なんてのも論外。Natureのeditorがそんな言い訳聞いてくれますか?極端な話、雨が降っても自分の責任、くらいに割り切っているとかえって気が楽なものです。理不尽のようでもあり、体育会系の精神論のようにも聞こえますが、実はこれが人生の成功のための秘訣なのです。

私が一日も早くボスに論文を見て欲しいときに何をしたかをお教えしましょう。まず、ボスに提出するドラフトといえども、内容と体裁を出来る限り完璧なものに仕上げることは当たり前のことです。私のベンチメートだったM博士は非常に有能なサイエンティストで、内容的にも素敵な論文(最終的にはScienceに掲載されました)を書いてボスに出したところ、タイトルだけを一瞥しただけで投げ捨てられました。タイトルの大文字小文字の使用に関して統一性がなかったためでした。ちょっと極端な例かも知れませんが、私はそのときのボスの気持ちを理解できます。誤字脱字や単純な文法のエラーや体裁の不統一性などがあると、いい加減な気持ちで論文を書いているんだなという印象しか持てなくなります。またボスが論文を直してくれた後の対応も大切です。私は徹夜してでも、必ず翌日には改変版をボスのところに持って行きました。改変箇所を付箋や赤下線で示し、自分のコメントも付け加え、出来る限りのことをします。その内容が大切なのは当たり前ですが、同様に大切なのは「どのくらい自分がこの論文に真剣に取り組んでいるか」をボスにアピールすることなのです。

ボスといえども人間です。そしてまず例外なく忙しい。残念ながら、ボスの心の中で君の論文が最重要課題であるとは限らないのです。そこで君ができることは、ボスにポライトにプレッシャーをかけることです。毎日詰問口調でしつこく催促することではありません。もちろん「まだですか」と言わねばならないときは必ずありますが、そのときは相手に気持ちよく受け取ってもらえるよう、最大限の神経を使って行うべきです。社会一般においても、催促を上手にオブラートでくるんで言うことは大切なコミュニケーションスキルです。

ではどうしたらポライトにプレッシャーをかけることができるのでしょう?先ほどの例では、「必ず翌日に」「質の高いものを」持って行くことが、ボスにとってプレッシャーになるのです。つまりこれだけの努力を部下が払っている、自分はこれに応えてあげなくてはならない、仕方ないので他の仕事を後回しにして、この論文を特急で仕上げてやるか、というようにボスに思わせる努力を「君が」するのです。逆にろくに完成されていないドラフトをボスに提出することはボスのやる気をなくさせるだけでなく、ボスの心の中にその仕事を後回しにする口実を与えることにもなります。ボスにやる気を出させるのもファーストオーサーの仕事であり、それが君自身の成功につながっていくのです。このような行動は必ず君とボスの関係を良好にし、ボスからは信頼され、君の将来へと結びつくでしょう。

Q32. ボスにやる気を見せたい。
A32. 上手にアピールすることはとても大切。

上の続きになりますが、ボスに上手にアピールすることはとても大切なことです。これはよく「媚を売る」ことと誤解されがちですが、全然違います。研究能力や努力を示す、ということがアピールで、それ以外のことでよく思われようとすることが媚びることです。ちょっと媚びることは時に微笑ましく映る場合もありますが、やり過ぎると逆効果になります。他人から好かれる人はこのあたりの微妙な空気を感覚的によく読んで、上手に振舞える才能を持っています。アピールすることは君の才能や努力を正当に評価してもらうだけではなく、ボスとの円滑なコミュニケーションを確立し、論文執筆・学会発表等でもきっと良い影響が出てきます。

アピールの場で最も良いのはプレゼンテーションの時間で、ラボミーティングでは、いかに努力して良いデータを生み出しているか、を上手に工夫して示しましょう。もちろんデータが第一なのはいうまでもありませんが、それをプレゼンする方法もきちんとしていると君の評価はぐんと高まります。ラボ以外でも科学者としての態度をきちんとアピールすることもとても大切です。私のラボでいつも学生に指導していることは、

●ミーティングやジャーナルクラブで、積極的にディスカッションに参加し、自分の意見を述べよう。

●セミナーではなるべく前方に座り、必ず質問をしよう。それも切れ味鋭いものだとより良いが、基本的なことでもOK。

●学会では早めに行って前方通路側でマイクに近い席を確保しよう。どんなに大きな会場でも恥ずかしがらずに質問しよう。特に自分のボスがいる会場ではなおさら(笑)。私は大学院の1年生なら1つ以上、2年生なら2つ以上、というように自分で自分にプレッシャーをかけていましたし、うちの学生にもそう指導しています。でも慣れると、そんなプレッシャーをかけなくても自発的にいくらでも質問するようになりますね。そんな学生の変化を見ると、ボスとしては非常に頼もしい気がします。

アピールする対象は何も自分のボスだけとは限りません。他の多くの研究者にも自分のやる気を積極的にアピールしましょう。その意味で上記の学会は大切な機会です。もちろん自分のデータを元に、大きなシンポジウムで話すチャンスがあれば何よりですが、そういうところに若手が採用されるチャンスはあまりありません。それでも多くの聴衆の前で自分の意見を披露するチャンスは誰にでもありますね?そうです、質疑応答の時間です。もちろん本質的な、そして目の付け所の良いシャープな質問をした方が良いに決まっていますから、発表を誰よりも真剣に聞いてロジックを頭の中で整理し、そこに疑問がないかどうかを神経細胞をフル活動して考えます。それでもいい質問を思い付かなかったら?私が座長のセッションで聴衆から質問が出ずに困ったときは(つまり発表内容が聴衆にほとんど理解されないときは)、「他の生物ではどうですか?」「組織分布はどのようになっていますか?」のどちらかで逃げることにしています。私からこの質問をされたら、君の発表が高尚すぎた、ということですね(笑)。

Q33. セカンドオーサー以降って意味があるの?
A33. ほとんどない、と思っていた方が賢明。

そりゃもちろん場合によってはありますよ。しかし論文というのは科学者の看板みたいなもので、non-PIにとってはファースト以外は看板にならないんですよ。セカンド以降はCVを豪華にするための飾りと考えた方がいいですね。もちろん飾りが全く必要ないか、と言うとそうでもないんですけど、若いうちはそんなことに汲々としないで、しっかりした自分の看板を作ることに専念して欲しいものですね。もちろん時には他人に協力することも必要な場合があり、そういうときは送りバントと割り切って協力してあげて欲しいですが、その見返りはいつか必ずありますよ。「情けは人のためならず」自分本位な私がしばしば口にしている自戒の言葉でもあります。

一番良くないのは、セカンドで多くの論文を書いている中間管理職です。私はそういう人を監督の下という意味でコーチと呼んでいます。教官になったら給料をもらっている者の務めとして、ある程度学生の指導に時間を使わなくてはならないことは仕方ありません。しかしそれも時間全体の25パーセントくらいまでにしましょう。それ以上は例え学生が泣きついてきても使うべきではありません。しかし中には学生の指導だけで精一杯で自分の実験はほとんどできない、という中途半端なコーチがゴマンといます。監督でもないのに、他人を動かすだけで飯を食おうというのは大きな勘違いです。逆に教官はある程度学生を自分の実験に動員してでもファーストで高いレベルの論文を書く気概を持って欲しいと思います。学生は高いレベルの論文のセカンドにしてもらえるだけでなく、次の関連論文のファーストとして、クオリティペーパーに簡単に論文を発表することができます。さらに独立していろいろ実験ができるようになったら、次の論文ではいよいよ高いレベルを目指しましょう。これこそが学生も、助手・助教授も、教授も、皆ハッピーになれるWin-Winゲームだと思っています。

Q34. インパクトファクターって気にする必要がありますか?
A34. あるに決まってんだろ!

この話は正直言って苦手です。なぜかというと、今でも依然として物事を表層的な言葉でしか捉えられないイデオロジストが数多くいるからです。こういう人達は「定量的評価」や「競争」という言葉自体に「絶対悪」という印象をお持ちのようで、その本質を理解しようとする自由な思考ができないようです。

同じ様な話は過去にもあります。「偏差値教育」という名の下に偏差値という単に統計学的な数値がさも悪いように信じられてきたことを皆さんも覚えているでしょう?偏差値自体は集団のどの当たりに自分が位置するかを示す指標として導入されました。これによってテスト毎のバラツキ、つまり平均点が低かろうが、全体がばらけていようが、自分のポジションをある程度反映する数値として初めは受け入れられたのです。しかしそれは結局評価を単純明快にし、それによって相互比較ができるようになってしまったために、逆に反発を食らってしまったのです。おかしな話です。

インパクトファクター(IF)も初めから否定的な印象を持っている人がいます。私は定量的評価の一つの道具だと割り切っています。包丁は便利な道具ですが、使い方を誤れば凶器にもなります。IFも用途を理解して正しく使えばそれで良いのです。

人はいろいろ理屈はつけますが、とどのつまり明快な定量的評価が大好きなのです。そして明快な物差しがある方がフェアなのです。日本人はフェア(公正)とイコール(平等)を混同している人が大勢いますが、全く異なった概念です。戦後日本の日教組教育の最大の誤りは、フェアではなくてイコールを良しとした点にあったと思います。そしてそれが人間の本質にそぐわなかったということは、共産主義の敗北という20世紀最大の教訓だったのではないでしょうか?今でもその幻想にとらわれている人が大勢いることは驚くべきですが。

作曲家が自信作を世に問うように、画家がコンクールに出展するように、クリエイティブな世界が成立するためには、厳正な評価と激しい競争を避けて通ることはできません。それを否定することは、作曲家が自宅のピアノで曲を弾くだけにせよ、画家が自分の部屋に作品をかけておくだけにせよ、と言うことと同じことです。科学者も自分なりに「大発見だ!」と興奮するような仕事は、皆にその興奮を伝えたくなるものです。なるべく人目につく、読者の多い雑誌に発表したいでしょう?そうすればそのような雑誌は質の高いエポックメイキングな論文が集まってくるのは当然ですが、掲載できる論文数には限りがありますから、必然的に競争が起こりますし、その結果としてIFは上がります。IFの高い雑誌に論文を出すと言うことは、科学者の看板に注目が集まっているということを”間接的に”言っていることなのです。

しかしながらIF否定論者の批判は、いつもこの”間接的”という点に集まります。「IFの高い雑誌に載っている全ての論文が良い論文ではない」ということです。それは個別には正しい場合もあるのですが、「総体としてみれば」、という視点を完全に欠いています。しかし確かに個々の論文を”直接的”に評価できれば、それはそれでいいですよね。そのような指標がCitation Index(CI)です。単に個々の論文の引用回数を定量化したものです。これは時間と共に刻々と変化するので、使いづらい点もあります。でも自信作の論文が結果的にCNSに落ちたときでも、後々にCIが非常に高いとちょっと見返したようで嬉しいですね。負け惜しみのようでもありますが・・・(笑)。

Q35. ラボを変わりたいのですが?
A35. 決断の秋、やるなら用意周到に。

何らかの理由で非常にアンハッピーな状態に陥り、もうこれ以上この場所にはいられない、と思うときは、実はどんな人にも何度か訪れます。私も真剣に考えたことが数回あります(しかし実際に実行したのは一度だけです→下記)。このような事態になったときでも、多くの場合は移籍しない方が結果的にはベターです。何故でしょうか?答えは簡単で、「私はアンハッピー」という主観ではなく、客観として現在の悪い状況が君の責任ではないことを他人に証明することが難しいから、なのです。その前提として、移籍の際には前のボスの悪口を言うのは禁忌か、または非常に控えめに言う、くらいにしておかなくてはならないことを知っておきましょう。たまに激しく前の上司を非難する人もいます。それは少なくとも部分的には真実でしょう。しかし君の評価は「上司とうまくコミュニケーションできない」「いずれ自分の非難も言い始める」可能性がある人、というものになってしまう危険が大きいのです。あまりよく知らない人に悪感情を吐露するのは、社会人としては未成熟と烙印を押されても文句は言えないと思います。新しい人を雇う側としては、トラブルメーカーの可能性があるだけでも敬遠する(というか敢えて採る必要がない)ものです。移籍先のボスの立場になれば簡単に理解できますね。つまり前のボスへの個人的不満を上手に隠したままで、移籍が必要だと相手に納得させる術を持つかどうか、という点が難しいのです。

仮に移籍先が見つかっても、やはり「前のラボをトラブルで辞めた」という評判はずっとついて回ります。科学者として非常に有能で、人間的にも誠実な人材が、ボスに恵まれなかったために苦労している例もいくつも知っています。しかし現実的にはボスと感情的に対立するのは天に唾するのと同じようなものですから、本当にこれ以上我慢できない、というところまでは何とか辛抱することですね。そして多くの場合、一時的な感情の昂ぶりが去れば事態は自然に好転することが多いのです。

では、本当にこれ以上我慢できない、というところまで来たらどうしたら良いのでしょうか。対策は一つしかありません。一気に勝負を決することです。もうラボを辞める決心をしたのにいつまでもボスと話し合いをしていると、ラボにいる間にいろいろと嫌がらせをされるばかりでなく、悪くすると移転先にまで妨害される場合もあります。ですから、移転を決心したときから、決してラボのメンバーには漏らさず、移転先を探すべきです。移転先のボスには、上記のようにボスの個人的な悪口は言わないで、客観的な事実だけを述べて状況を理解してもらうよう努力します。移籍が全て決まってから、初めてボスに淡々と報告しましょう。もうこの段階では議論する余地はありません。下の者は弱い立場にありますから、こうしないといろいろないじめを受けかねません(最近はそういうことに対して世間が厳しくなってきましたが)。

私は前の職場から九大に移る際に、初めて一度だけこの経験をしました。もちろんボスは激怒し、その後いろいろな意地悪もされましたが、全て想定範囲内でしたので、何とか穏便に対処することができました。そのときの自分の経験から感じたことを、今では自戒にしています。有能な部下が去っていくのは残念なことではありますが、同時におめでたいことでもあります。どんなに心中は悲しくても、ボスたるもの満面の笑顔で「おめでとう」と言ってあげること、これは生涯守っていこうと思います。

第5回まとめ

残念ながら、研究はいつもバラ色ではありません。灰色の部分もかなりあることはどうしようもない現実です。しかしそのようなときにどのように考え、行動し、それを楽しんでいくか、そこに科学者の本領があるように思います。日々の実験自体は非常にシンプルなものです。ポジコンとネガコンをしっかり動くような条件を基礎検討で探してしまえば、後はサンプルを調べるだけです。それがきちんとできないのは、知識と論理的な思考能力の欠落にあることが多いのです。そしてそれは教育によって指導してあげることが可能です。そのためにも上司とは良好なコミュニケーションをとることが重要ですが、上司も人間です。やる気のない(見せない)人にはあまり情熱を注げないのは当然でしょう。上手にアピールしてボスの情熱を冷まさないようにすることがとても大切なのです。けれどもどうしても上司とうまくいかない場合はどうするか?そのような状況はなるべく避けることを勧めますが、最終的には一気呵成に物事を進めることが肝腎です。

大学院も高学年になってくると次のステップ、つまり留学の問題が迫ってきます。最近はいろいろなオプションがあるようですが、私がお勧めするのはたった一つです。それは何か、なぜなのか、を次回は徹底的に解説します。乞うご期待。

第2章 青春怒濤編(大学院学生に向けて)

その2 ー 留学に関する諸問題

Q36. 海外へ留学すべきか、国内でもいいのでしょうか?
A36. 米国へ留学すべきである。

Q37. ポスドク先選びのアドバイスをお願いします。
A37. 今のラボよりも上のラボに行くこと。

Q38. 卒後すぐに留学すべきでしょうか?
A38. 特別な事情がない限り、すぐに行った方が良い。

Q39. 留学は何年間くらいが適当ですか。
A39. 最低でも3年以上は必要。

Q40. テーマは変えるべきでしょうか?
A40. 必ずしも変える必要はないが、広く捉えること。

第3章 雄飛発展編(ポスドクに向けて)

Q41. 家庭と研究の両立は可能ですか?
A41. 完全な両立は原理的に不可能。

Q42. 科学は競争か???
A42. 科学は独創性のぶつかりあいである。

Q43. アカポスをゲットするためには?
A43. 論文を出していれば機会は自然に訪れるもの。

Q44. 日本の学会に顔を出した方がいいですか?
A44. 論文が出たら積極的にアピールせよ。

Q45. 日本に帰るとしたら、どんなラボへ帰るべきか?
A45. 中間管理職にならないところ。

第4章 艱難辛苦編(助手・助教授に向けて)

Q46. 助手・助教授ポジションの心構えについて教えて下さい?
A46. コーチになるな。現役選手として頑張れ。

Q47. ボスがなかなかラストオーサーシップを譲ってくれない。
A47. ファーストオーサー以外にこだわらないこと。

Q48. 早く教授になるコツはありますか?
A48. コツは早く教授になろうと思わないこと。

Q49. 学生はどうやって指導したらいいですか?
A49. 君達の背中を見せてやること。

Q50. 任期制って必要なんですか?
A50. 評価と雇用見直しは健全な研究環境には必要なもの。

第5章 勇躍独立編(若手教授に向けて)

Q51. どんなラボを作ったらいいでしょうか?
A51. フラットな組織を目指すこと。

Q52. 「ラボは階段」ってどういう意味?
A52. 歩いていけば皆が上へ昇れるような仕掛けを作ること。

Q53. 階段機能の麻痺を避けるためには?
A53. 途中で座ってしまう人を出さないこと。

Q54. 前のボスとはテーマを変えるべきですか?
A54. 前ボスが偉ければ偉いほど、テーマを大きく変えるべき。

Q55. 雑用が多くて困る。
A55. 雑用をするのが貴方の仕事ですよ(泣)。

第6章 共同参画編(女性研究者に向けて)

Q56. 女性であることを理由に差別されることはありますか?
A56. ない。むしろアドバンテージと捉えるべき。

Q57. あるポストにおける女性の割合を予め設定することは妥当ですか?
A57. そういうことは逆に差別を生みかねない。

Q58. 結婚や出産は女性研究者としてデメリットになりますか?
A58. 一流になりたいなら、結婚は△、出産は×。
(詳しくは、『中山敬一が語るジェンダー論』を参照。)

Q59. 結婚するなら研究者がいいですか?
A59. 同業の方が有利な点もあるのは確かだけど・・・。

Q60. 夫婦で同じラボにいることは良くない?
A60. そんなことはないけど、いつかは独立しなければね。

Q61. 女性のボスの下では男性は働きにくい?女性は?
A61. 要はボスの能力に下が信頼できるかどうかの問題。

バイオ研究者が生き抜くための十二の智慧

バイオ研究者が生き抜くための
十二の智慧
細胞工学 別冊 [単行本]
中山 敬一 (監修)

学研メディカル秀潤社 (2013/9/1発行)
¥2,520

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目 次

  • はじめに(中山 敬一)
  • 第1章 ラボノートの書き方(水島 昇)
  • 第2章 試薬・実験データの管理(鍔田 武志)
  • 第3章 書類整理術(佐谷 秀行)
  • 第4章 EndNoteを活用した文書作成術(中山 敬一)
  • 第5章 マテリアルリクエストへの対応(水島 昇)
  • 第6章 論文レフェリーコメントと闘う心構え(仲野 徹)
  • 第7章 論文レフェリーをこなす(中山 敬一)
  • 第8章 オーサーシップ(水島 昇)
  • 第9章 Skypeでラボミーティング(上野 直人)
  • 第10章 Journal Club(中山 啓子)
  • 第11章 メディアを介した研究成果の発信(東原 和成)
  • 第12章 プレスリリースの書き方(小泉 周)
  • 番外編(1)ベンチワークの匠:ヒト型ロボット研究員『まほろ』(夏目 徹)
  • 番外編(2)マウス系統の寄託と提供(理研BRC編)(吉木 淳)
  • 番外編(3)バイオラボ秘書の仕事術(櫻井 紘子)

「雑用が多すぎる」。研究室の主宰者(PI)の間では、ほとんど挨拶代わりに使われる言葉です。君達のラボのPIも、いつもそうやってブツブツ文句を言っていることでしょう。では「雑用」とは何でしょうか?もちろん厳格な定義はないのですが、私の印象では、直接の研究活動以外のことは全て雑用にあたるみたいです。例えば、毎年度初めに書かなくてはならない大量の報告書とか(誰が読むのだろう?と思います)、他の研究者からの試料リクエストへの対応、他人の論文の査読、など多くの雑用がPIの時間を奪っていきます。自分の研究とは直接関係のないことに多くの時間を取られるのは本当にストレスですが、ラボのマネージメントをする限り、非常に多くの雑用をこなさなくてはならないのは、PIの宿命なのです。

ところが世の中には、このような雑用を簡単に片付けるためのノウハウを持ったスマートなPIがたくさんいます。つまり現場の知恵です。ところが残念なことに、このような素晴らしいノウハウは多くの場合、蓄積されたり伝承されたりすることなく、その人個人の一代限りの知恵として、終わってしまうことがほとんどです。大変もったいないことだと思いませんか?

本書の企画意図は、まさにここにあります。つまり多くのPI達が有する個人的なノウハウを多くの研究者に伝え広め、雑用に取られる時間の総量を大幅に削減することによって、日本の科学の質と量を高めようというのです。本連載が、現在PIである人だけでなく、将来PIになる人にとっても有用でありたいと願っています。今回はとりあえず私の身の回りの方々の中で素晴らしいノウハウを持った人の秘伝を紹介してもらいますが、日本には他にもこのような秘伝が数多く存在することでしょう。本書が試金石となって、いずれは、数多くの情報が統合され広く交換されるよう、心から期待しています。

2013年8月
中山 敬一

君たちに伝えたい3つのこと

君たちに伝えたい3つのこと
―仕事と人生について
科学者からのメッセージ [単行本]
中山 敬一 (著)

ダイヤモンド社 (2010/7/30発行)
¥1,500

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目 次

(その他、具体的で本質的なアドバイスが満載!)
全93項目

当HP内に掲載の「教授からのメッセージ 〜 幻の原稿」は元々、某科学専門誌に掲載される予定でしたが、「内容が過激すぎる」という理由で発刊直前になって急遽ボツになった曰く付きの文章です。内容は3分の1くらい執筆しておりましたが、残りは未完でした。

なぜ「内容が過激」とされたのでしょうか?それは本質を正直に晒しているからです。人間は感情の生き物ですから、本質を直視できない人も多くいます。しかしそうやって本質を隠していると若い人に誤ったメッセージを与えることにもなります。人生を左右する決断に際して、一つくらい本音を晒して若者を啓発する本があってもいいのではないでしょうか?

5年間にわたり多くのWEB読者の声に支えられ、やっと残り3分の2を執筆し、さらに既公開の部分も抜本的に書き直して、このたびビジネス書を多く出版しているダイヤモンド社から「完全版」として出版することになりました。

書き直しにあたっては、医学生だけでなく、文系・理系問わず読めるように、大幅に書き直しました。またHPの予告にはなかった「文系ビジネスパーソンにも役立つ、研究者の仕事術」や「クリエーターも必要不可欠、コミュニケーション力の身につけ方」などの章も追加して、WEBを既に読まれた方も全く違う観点から楽しめるようにした本です。

是非手にとって読んでみて下さい。あなたの人生の決断の一助になれば幸いです。

2010年7月
著者

中山敬一が語るジェンダー論

はじめに

10年前に出版した著書の内容について、不幸な誤解により、図らずもご不快な思いをさせてしまった方にお詫び申し上げます。

Abstract

私が10年前に書いた「結婚は△、出産は×」という文章が誤解されたまま一人歩きしているらしい。しかし、これは現代日本が「結婚は△、出産は×」という悲惨な実情にあることを端的に表現したもので、私の個人的な思想ではない。むしろ私はこれらの現状を深く憂いており、女性のキャリア形成を応援したいと思っている。しかし、世界一流の科学者を目指すためには、夫婦どちらかが一定の犠牲を払うことが避けられない現状となってしまっている。それが女性である必要は無いにも関わらず、結局は女性が損をするのが現代日本社会の悪弊である。そういう現状をしっかり見据えつつも、何とか解決する方法を皆で考えていきたい。

Introduction

今から約10年前(2010年)に『君たちに伝えたい三つのこと − 仕事と人生について 科学者からのメッセージ −』という一冊の本を上梓した。その中の一章に「結婚は△、出産は×」と銘打った章がある。この章は当研究室のウェブ上にて無料で読めるので、是非ともご一読願いたい。

10年前には、その一文を問題視するような社会的風潮はあまりなかった。しかしそれから時代は徐々に変質し、私の伝えたいことが正確に伝わらず、「中山 敬一は女性差別論者でけしからん」という方々が増え、中には苦情の電話が大学まで来たこともある。このことは、社会がこの問題に真摯に向き合うようになってきたことを示しており、喜ぶべきことなのかもしれない。

私は従来、研究以外の意見に関しては無言を貫くことをポリシーにしてきたが、ふと別の考えが頭をもたげてきた。不本意ながらも不快な気持ちにさせてしまった方々に申し訳ないが、幸か不幸か、議論の場が与えられたわけで、これを機会に「中山 敬一が考えるジェンダー論」を述べることにしたい。これが導火線になって広く議論が巻き起こり、日本社会の後進性が少しでも改善されれば、私の悪名も少しは世の中の役に立つことであろう。

本文

1. 「結婚は△、出産は×」の真意

私の本をきちんと読めば明白であるが、私自身が「結婚は△、出産は×」と考えている訳ではない。むしろ逆である。私は、そのキャリアを応援したいと真摯に考えている。

事実、私の研究室では多くの女性が(楽しく???)働いており、中には二人の子供を出産し、育児をしながら、世界一流の研究に励んでいる女性研究者もいる。過去には女性の助教や准教授が在籍していたこともあるし、その中から二名の女性教授を輩出した。この点を鑑みて、私が女性のキャリア形成を否定したり、阻害したりするような人間ではないことを理解して頂きたい。

また私のパートナーが研究者なので、普段から女性研究者の率直な意見を聞く機会に恵まれている。男性の視点では気が付かないことも多々あるし、想像していたことと正反対のこともよくあるのだ。私は女性を積極的に採用したいと思っているし、研究者における男女比は1:1でいいと考えている。

2. 厳しい競争社会に生きる科学者達

研究で世界一流を目指すということは、いわばオリンピックで金メダルを狙うことと同じである。金メダルを史上最も多く獲得している水泳のマイケル・フェルプスは、4年間で練習を休んだ日は0だと言う。ゆっくり休んでいるオリンピック選手などいないように、のんびり研究をやっている一流の研究者など寡聞にして知らない。

どんな世界においても、超一流を目指すものは、男も女も関係なく、血反吐を吐くような思いで仕事に打ち込んでいるものだ。

3. 現代日本社会の実情

日本社会の後進性が、このような厳しい現状の中で、女性の進出を大きく阻んでいる。

妊娠は心身共に大変な負担を女性に強いるが、それを男性が肩代わりすることは不可能である。育児については男女平等に負担することは、机上では可能だが、女性側に負担がかかっているのが現状である。積極的に男性が時間を割くなど、女性の負担を軽減する方法はいくらでもあるはずだ。

拙著を執筆してから10年の歳月が経ち、日本の環境も次第に変わってきたと肌で感じる。しかしそれでも、2020年時点の我が国において、仕事を早退したり、急遽仕事を欠勤したりすることは、いまだになかなか困難な現場も多いだろう。例えば、従業員5名の会社で、決算期の直前に深夜まで残業しなくてはならない時に、保育園の出迎えで17時に帰宅する社員がいたら、周りの社員は徹夜になるかも知れない。例えば、多忙を極める病院の内科外来で担当医師が2名だった場合、その片方の子供が突然熱発したので出勤できないと外来開始直前に連絡があったとき、もう一人の医師の絶望感は想像するに余りある。

「もっと人数を増やせば良い」などというのは理想論に過ぎる。現実は、人数も予算もギリギリのところで皆何とかやりくりしているのだ。組織が大きいところでは、何とかやりくりすることも可能であろう。社員が1000人もいれば、数名が急に休んでも何とか対処できるかも知れない。しかし、上記の例のように、5名とか2名とかの場合は、そういうわけにはいかない。そして、われわれの研究室も同じような規模なのである。大学の教授とは、実態は零細企業のタコ社長のようなものだ。

4. なぜ女性だけなのか?

残念ながら、現代日本において、研究室の規模が小さく、夫婦共に深夜まで研究することはほぼ不可能である。そんなことをしたら、子供が死んでしまう。

そして今までは、常に女性が暗黙のうちに損な役回りを押し付けられてきた日本社会の現状を憂いて、10年前は出産は×と記した。しかし、私はこの古い風習に反対である。なぜ、女性だけなのだろう?男性がもっと育児を担当してもいいのではないか?現状では、子供を持つ夫婦両方がハードに働くことは、様々な条件に恵まれない限り、なかなか困難だ。

5. 現状は容認しないが把握は必要

ある研究者の方から、次のようなご意見をいただいた。「現状を容認することは差別の助長である」と。なるほど、これは私も頭から反対ではないし、そういう視点もあると思う。少なくとも、この方と私とは「女性の立場を改善しよう」という点では、同じ方向を向いていると感じる。

ただ、一点断っておきたいことがある。「容認」とは「これでいい」という意味だが、何度も繰り返し述べているように、私は「現状がこれでいい」とは一切考えていない。現状は良くないが、それはそれで実情を認識し、さらにそれを改善するために皆で努力していきたいと考えている。全ては正しい「現状把握」から始まるのだ。

科学者というのは、その職業の本質として、現状の問題点を洗い出し、それを様々な方向から議論し、考察する人種である。そこには前提もタブーもない。私は自由な議論がしたい。自由で真摯な意見の渙発によって、この良くない現状に一石を投じたいのだ。

6. 解決策は何か?

もちろん、雇用している女性が妊娠・出産したら(もしくはその夫が育児に参画するなら)、もう⼀名雇⽤してもいいというようなルールができれば、女性の雇用は増えるかも知れない。実際、JSTの研究費ではそのような制度が存在したことがある。政府や社会がすべきことは、まさにこういうインセンティブを与えることである。深夜まで使える託児所をたくさん作る、研究者をサポートする技術員や補佐員、コアラボの制度を充実させる、労働を代替えしてくれるロボットの導入を促進するなど、個人に負担のかかりすぎる労働集約的な環境を改善することも大切である。

このように解決の方法はいくらでもあるだろう。しかし、こういうことは、もちろんタダではできない。それなりの、いや、かなりの投資(税金)が必要である。しかし為政者は実はそこまで本気ではない。だから、結局やらないのだ。私もいつも良い方策を考えているのだが、なかなか現実的で即効性のある案を思い付かないのが口惜しい。

7. 皆さんのアイデアを募集します

皆さん、この問題に対する解決策を一緒に考えましょう。実効性のあるアイデアをお寄せいただければ、私が責任を持って、しかるべき組織へ働きかけます。妙案をお待ちしております。

生い立ち特集

DOCTOR’S MAGAZINE 7月号: No.68 July 2005 p21 掲載
株式会社 メディカル・プリンシプル社 (ホームページ URL https://www.doctor-agent.com/

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教えて、先生!

Kyudai Walker No. 28(2011冬号)

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